裏話の実利と実害。

親愛なるあなたへ

ある「世の中の裏話」を公開しているサイトを見てて一つ感じたことがあります。

それは裏話の与える実利と実害について。

裏話の真偽よりも遥かに上位に位置する「自らへ与える影響」をよく考えてみる、ということ。

たとえば今ロシアやウクライナをめぐって色んな話があると思います。

円安もありますね。

いつかも書いたのですが、私たちにだって人に言えない秘密の一つや二つあるのですから、ましてや国家や世界という巨大な舞台にとても明かせないような秘密が何千何万とあったっておかしくないのですね。

それを知った後どうなるのか、というところが大切です。

情報は活用するから意味がある。

知っているという自己満足では無意味などころか逆に害になることさえ。

たとえばロシアの侵攻や円安の世界の裏話を知ったとして、それがたとえ本当のことであっても「世も末だ」という思考がどっかに生まれれば自らの生産性は確実に落ちます。

不思議に思うかもしれませんが個人の経済と世界の経済はそんなに関係がない。

自分が一国の首相や世界の首脳会議を代表する人物なのであれば話は別ですが、我々はそうではありませんね。

私たちが考えてるのは基本自分自身や自分の家族、広くて会社をやってる人は従業員のことくらいでしょうか。

例えるなれば「周囲数十メートルの事」を考えて生きています。

そこに周囲数百キロ、数千キロの話を持ち出されても使うことができない。

それならそういう情報を知らずに自らの普段の仕事に精を出してアイディアを元にした生産性に集中した方がよっぽど「実利」になります。

経済というのは価値で生まれるもので、それは全て何もないゼロ、つまりアイディアから生産されます(そのアイディアを元にするものはもちろん存在しますが)。

我々は普段労働力を価値だと思っていますが(もちろんそれも確実に一つですが)、経済の本質は循環を生む、つまりゼロから流れを作るということになります。

すると、世界が混乱していてもそのアイディアで自らの周りだけは不思議と豊かになる。

これは精神論ではなく、少し前にご紹介しました「国民の底意地の悪さが、日本経済低迷の元凶」(著:加谷珪一)でも、イノベーション、つまり画期的なアイディアや技術や工夫がマクロ経済学の理論上、労働生産性の違いとなって顕在化すると明記されています。

一人だけでは「対・世界」についてはどうにもならないかもしれませんが、極論、日本人全員がその態度で取り組むことができたなら日本の経済力は一気に高まり、そしてその経済力のある国が発信する情報力によってロシア侵攻さえ影響を与えることができる。

現実的には不可能ですが、理論的には確実に可能なことです。

だから裏話を知って満足するよりも、それが自らの思考へよろしくない影響を与えると感じ取ったときは「真実を知りそれを声高に拡散する意義」よりも「生産的活動に必要な思考を防御する価値」の方が、大きく見た対・日本、対・世界への実利を確実に兼ねる。

裏話は実利になるなら大いに価値がある。

しかし実害になるなら本当のことであっても聞かない方が実利になる。

そういうことだと思います。

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神への承認欲求。

親愛なるあなたへ

私が神さまという概念が必要だと思うのは、人間の中に根底的に存在する「承認欲求」というものを払拭するためだと思うのです。

世の中における人間関係のほぼ全ての問題は承認欲求が歪んだ形で出てきた結果だと思います。

それは過分に「他人に」承認してもらおうとする、だから無意味な足の引っ張り合いや嫉妬、マウンティング、あるいは子供を自らの自尊心の道具にしたり(子供の自立への阻害を含め)する。

無意識のうちにですね。

それを神という存在に自分は認められているのだという、「他人」「人間」という枠を越える一つの目安がないと難しいと思うのですよ。

よく「そのままの自分を愛しなさい」と言うのですが、正直いきなりこれができるわけがないのです。

頭で分かっても、なかなか納得できない。

その前に「人ではない何か」に承認してもらうという「途中経過」が必要である。

何か宗教をやれということではなく、自分なりの信仰を持って、神に認められているという感覚を得ないと「そのままの自分を愛する」という次元に到達するのはおそらく至難の業でしょう。

筆者はなんとか「そのままの自分を愛する」ことができるようになりましたが、それでも神による承認という概念を経て、それこそ今でも神さまに認めてもらってると思っていないと大変なときもあります。

今の日本はなんだかおかしい、歪んでいると多くの人が心のどこかで感じているのは、おそらく日本の信仰心の希薄さと無関係ではないと、そんな風に感じるのですね。

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誰が与えたのかが分かれば。

親愛なるあなたへ

私は占いについてよく触れますが、飛び出してこれらを活用し始めたとき、どんなに大変でどんなに自分が恵まれないものを持っていても不思議と運命を呪ったり自分を呪ったりすることがなかったのですね(飛び出して今日まで書き続けている記事を見ていただければ分かると思います)。

呪いそうになっても、思い直す。

しばらくして、時間を置いてもいいから思い直す。

それは斎藤一人さんや小林正観さんの影響が多分に強いと思うのですが、全てのものは神が与えてくれたものだ、と思うようになったからだと思います。

神様と約束してきたからだ、と。

お二人は占いについてあまり具体的に触れられませんが、手相だろうが名前だろうが、過去に引っ越した方位だろうが家相だろうが、どんなにそれが悪くて実際に影響が出ていたとしても、人間は「それらを切り開ける」。

なのでいつかも書きました、「幸運・不運」というのは本当は存在せず、一見「不運」に見えるものは「それを自分の力で乗り越えることができる」という一つの「才能」なのです。

占いで不運と出たときはめちゃくちゃ喜んでいいわけですよ(笑)

もちろん「自力」というのは「占いの力も活用する」ということで、この世のシステムを知ったのにそれを活用しないこととは意味が違います。

それなら最初からシステムを知ってる人や、システムを知らなくてもその流れに乗っている人の方が「価値がある」のではないかと思ってしまうのですが、そうではなくて「途中で知って修正するだけの力がある」「それだけのものを乗り越える約束を神様とした高次元の魂」なのです。

これは自分だけではなくてどんな人でもそのステージを通らなければならない。

その通らなければならないステージを、生まれる前に「今度のあなたなら大丈夫だよ」とお墨付きをもらっているのですから、「不運」と呼ばれるものに価値を見出し、神様の愛を見出す。

神様がしてくれた絶対的な約束。

そしてそれを了承した自分との約束。

かの占いですら神が作りたもうた。

占いや霊能力といった不思議な世界を活用するとき、もっとその根源的な理由というのを考えればおのずと解決策は見つかるのだと思います。

p.s.

そして、見つかったならば「今さら」とか「もっと早く知っていれば」とか「他の人は何で知らなくても与えられるんだ」とかじゃなくて、すぐに活用していこうではありませんか。

合理主義者はそう考えています。

by You

義務教育の教えを破る。

親愛なるあなたへ

「姓名判断」という占いがありますね。

自分の名前が運命に影響すると。

どういうシステムでそうなるのか、というのを気学の分野で何度かご紹介させていただいている竹下宏先生が非常に分かりやすい解説をしてくださっています。

www.youtube.com

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なるほど、人生で一番多く書く単語、その「波動(リズム)」が体の中に浸透する、と。

私は最近、あるところで知り合った方から占いの本が大量に送られてきたときがあって(笑)、その中に姓名判断の本があったので少し読んでみたのですが、その著者の方も似たようなことを書いていまして、画数が問題なのだから「名前を変えずに画数を変えればいい」と。

たとえば「くさかんむり」であれば通常「三画」で書きますが、それを旧字体「++」(真ん中が離れている)で書けば四画になります。

名前は一画変わるだけで全く違った運勢になるそうです。

私の名前もよろしくない数字が多数含まれていまして(汗)、仕事柄普段テストの採点で採点者の欄に自分の苗字をいっぱい書くものですから、なんとか試行錯誤して。

苗字は「天格運」と言うそうですが、私の場合天格運が12画というよろしくない数字になっていて、何とかそれを改善すべく、「反」とか「友」とかを一部に含むような通常一筆書きで書くべき「曲がる部分」をあえて「一」「ノ」に分けて一画多くする、と。

するとあら不思議「13画」という「吉数の波動(リズム)」へ。

なので、運命を打開するため、小学校で習った正しいことは実は運命上正しくないという答えに達し、義務教育で叩き込まれたあの練習帳をついに卒業する日が来たと思ったのでありますね。

p.s.

もちろん最終的には普段使いの名前を変える方がいい(免許証など行政上の名前はそのまま。芸能界の方もみんなそうです)のですが、まずはできるところから、というのが運命打開のキーワードです。

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影響力があること。

親愛なるあなたへ

「誰かに影響力がある」と言われて嬉しくない人はいないと思います。

「影響力を与える価値のある人間だ」「すごい人間である」と思えるからですね。

影響力を与える人数が多ければ多いほどその価値を実感できるかもしれません。

ところが職業柄か、誰かに影響力を与えることほど恐ろしいことはない。

直感でイラストを選ぶインターネットの占いをいくつかやってみたのですが、私はどの占いでも「影響力を多大に与える」という結果が出てしまいました。(先天的なものでなく確実に飛び出してから後天的に備わったものです。誰でもそうなります。)

影響を与えられるか与えられないか分からない、なら「与えてみたい」と思うけれども、「100%影響を与えてしまう立場」に真っ当に立ってみれば必ず恐怖が湧いてくる。

記事の書き出しの頃「リーダーになりたがっていた私」なら影響を与えることに喜びを感じていたでしょうけれども(これをメサイアコンプレックスと言います)、本当に自分らしく自分が大好きで、自分の好きなことをする、なんならこの自由を邪魔しないよう注目したりしないでほしい(笑)というライフスタイルを貫いて確立した今、他人に影響力を与える真の意味で恐ろしさを感じます。

その人の考え方を自らが握っている。

人生は考え方で決定されるから、その人の人生は自分が握っている、命は自分が握っているようなものです。

全てはこちらのさじ加減で未来の方向性が。

才覚があるとなればより強く思う。

真の成功者が多くの人に影響を与え魂的に満たされるのは「影響があるすごい人間」という自分を褒めているのではなく、「多くの人の心に希望の灯をともす役に立つことができた」という貢献感からです。

なので、影響力を与えることにのみ主眼を置くと間違いが起きてくる。

影響力があることは恐ろしい。

影響力を与える立場に立つときはその恐怖を自覚すれば間違いの幅もきっと少しは少なくなる。

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帰納法と統計学に何故希望を見ないのですか。

親愛なるあなたへ

人の心理は面白いものです。

自らの可能性を見出したい心にも安定を求める声が聞こえる。

安定の中に可能性はありませんから、可能性を求めるなら必然的に安定を崩すことになります。

現代の理論は大まかに「帰納法」と「演繹法」に分かれています。

以前も触れましたが、簡単に言えば帰納法は「事例をいっぱい集めれば証明できる統計学」で、演繹法は「前提さえ間違えなければ完全無欠の究極理論」とも言えます。

なので、帰納法には穴があり(一つでも違う事例があれば崩れ去る、つまり崩しやすい)、そして演繹法は前提が間違っていなければ穴がない(前提を覆すのはほぼ不可能で、もし前提が間違っていれば確立した理論として流布し我々の耳に届く前に淘汰されます)。

人は演繹法を希求する。

それは間違いなく安心を求める声からですね。

でもそこには完全無欠の理論が存在するから、そのようにやれば必ずそうなる、という結果が待っています。

未来が分かるのですね。

未来が分かるけれどもそこに可能性はありません。

片や、帰納法統計学

「多くの人がこうなっています」。

でもそれに対する「反例」が、「割合としては少なく」とも「絶対数としては一つの街ができるほど存在」する。

私は化学を扱う唯物論者でありますが、天と運命と魂と、それらが秘める可能性を追求する唯心論者でもあります。

この矛盾する二つの信念を二つの証明法の中に見る。

帰納法統計学に何故希望を見ないのですか。

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天気を利用した素直さ。

親愛なるあなたへ

松下幸之助さんは「雨が降れば傘をさす。この素直な心に真実をつかむ偉大な力があることを学びたい(要約)」とおっしゃっています。

天気、まさに「天の気」には人の心を本来に引き戻す何かが含まれているのではないか。

洗濯物を干す。

今は室内乾燥機も発達していますが、それをあえて使わず、室内に干すスペースも設けず、さらにベランダは最上階の雨ざらしの環境ならば、常に天気予報をチェックして、自らの洗濯物の溜まり具合と相談し計画的な行動を、という、どんなに計画行動が苦手な人でも「着る服がない」「拭くタオルがない」ということになれば、これは計画的にならざるを得ないのではと。

特にこれからの梅雨の季節はですね。

これも素直な心が成せる術。

自然現象に対し、よく観察しよく対峙することによって我々の素直さという感性が取り戻せる。

決して非効率的・不快な環境への適応を推奨するものではありませんが、そういう素直さを実感で体得するには天気はとても為になると思う。

その視点で見れば雨もまた良し、日照りもまた良し、多少の暴風やその他突発的な変化も生活・生命を奪われない範囲ならまた良しなのである、と。

by You