私が自由を論ずる理由。

親愛なるあなたへ

自由を論ずる、と言うとさぞかし立派なことのように思えるのですが、筆者としては半分「自分への防御策」として捉えている面があるのかもしれません。

今まで様々な記事を書いてきて、その中で「それを認めるの?」という内容もあったと思います。

たとえば「親が死んでスッキリした」「法律の力で親を社会的に抹消した」など、嘘偽りない心情や過去を吐露される場面に出会うこともありましたが、一般的には「何でそんなこと思うの?」「何でそんなことするの?」という反応になってしまうかと思うのですが、その人の心を形成した人生はおよそ他人が窺い知ることはできないもの。

ですから、もしそれが自分だったら、自分がその立場に置かれたときに同じ批判ができるだろうかと考えるときにどうもその気合いが入らないのです。

そういうことから、私も様々な批判を記事で展開してきたこともありますが、それは「自分が同じ立場に置かれても同じことを言う」という安心感みたいなものがあります。

残忍な殺人犯の心情をくみ取るわけでもなく、犯罪を認めるわけでも決してありませんが、自分が経験しなかった心情に出会ったとき、それをよく知る前に全面否定するのは、神様に「じゃああなたも体験してみる?」と言われているようで怖いのであります。

来世や生まれ変わりというのがあるのかないのか、それは人それぞれでここでの議論の題材ではないとは思うのですが、それでももし自分が経験したら、というある種の「正しい畏れ」がそういう視野の広さを持たせてくれるのではと。

ここに私が心の自由を論ずる一つの理由があります。

by You