なぜ騒ぐニュースを批判するのか。

親愛なるあなたへ

たとえば今般のコロナウイルスのニュースに関し批判的な記事を書いている私ですが、コロナウイルスの脅威を甘く見ているわけでも拡散を助長しているわけでもありません。

パンデミックは避けなければいけないし、なんだかんだ書いても予備校では生徒さんに万が一のことがないよう積極的にアルコール消毒もしますし、もちろんマスクもしてます(以前、「マスクもせず普通にしてます」と記事に書きましたが、最近は現況を鑑みて個人的に外出するときもマスクをつけるよう、これは反省しました)。

ほぼ家にいて(この時期は出講が少ないのもあります)買い物もできるだけ人が少ない時間帯、旅には出ますが自然が多いところばかりで人が「大混雑」しているようなところには近づきません。

コロナに関する記事はこの度は割愛しますが(以前リンクを張らせていただいた川崎市健康安全研究所所長の岡部信彦先生の記事のように、感染症の専門家・スペシャリストの正確なご意見を聞かねばなりません)、私が同じことを繰り返すニュースを批判するのは、情報の共有なのか恐怖を語り合いたいのか、という微妙な線が分からなくなるからなのです。

情報の共有、という大義名分で発信されてはいますが(もちろんそれ自体は非常に重要であります)、それを繰り返すと恐怖を語り合うことが現況の「善」になってしまうので、自粛自粛もそうですが、「今でも幸せを感じていい」という感覚が麻痺してくるから危ないのです。

ただでさえ経済が落ち込んで飲食・観光・販売・物流などの士気が落ちている中、そこに拍車をかけるように日本国民全体のモチベーションというか幸福度というか、そういうものを下げておいて「良くなる方向に向かうファクター」など何もないのです。

批判的内容を書くと必ず「コロナを甘く見てるのか」「そういう人間がいるから犠牲者という悲劇が起こるんだ」という意見が出るかと思うのですが、世論が騒いでいる中、どこかで誰かが止める発言をするなりこういう批判的記事を書くなり、「制御因子」として働きかけないとにっちもさっちもいかなくなるのだ、という考えを念頭に持っていることを汲み取っていただけるととてもありがたく思います。

by You