笑いの要素。

親愛なるあなたへ

私はものすごい笑いをとれるタイプ、ということではないのですが笑うことや笑いにもっていくことはすごく好きですね。

記事では哲学的なことを中心に書こうと思っているので実生活とは相当な乖離がある(実際に会うとがっかりする)というシロモノなのですが、それでもかまへん、といういわば笑いの大阪精神というか、この地域に育てられた面があると思います。

予備校のお仕事でもイラスト入り手作り資料(デジタルモバイル・テレワーク・遠隔授業というご時世でありながらまさかのオール手書き)で説明をするのですがありがたくもこれが生徒さんの評価が上々で、分かりやすいとか受験に使えるかは別として、説明している最中にクスクスと笑う生徒さんがいらっしゃるようです。

もちろん自分なりのコンセプトとして、基本学校の勉強などというツマラないものを「なるべく負担がないように」かつ「見ていても疲れないように」(もちろん分かりやすく!)があり、それに少しでも近づけるようにしているのでありますけれども、やはり笑いがなくては、と。

すると、資料を見ただけで笑い出す、という人間の精神構造がどのようなものなのかを私なりに考察した結果、一つの仕組みというか要素があるように思いました。

それが、想像できるところと説明してほしいところの紙一重の場所を突くということではないかと。

たとえば学校の勉強の資料で言えば、分かりにくい部分を日常生活に当てはめてみるのですが、それがどのように当てはまっているのかを吹き出しとかで完全に説明してしまうと「冷めて」しまう。

かといって、全く何の情報もないと関係性が伝わらずに「何これ」となってしまうので、吹き出しや文言だけでなくイラストそのものの細かいところにメッセージ性を込めてみる。

そのちょうど中間というか、せめぎ合いの部分というか。

これはみなさんも笑いに関する日常生活であるあるだと思うのですが、何で面白かったのかを説明されると急に冷めてしまったりですね、逆に勝手にテンション高くやられても意味が分からないから冷めてしまったりですね。

「笑いに理論がある」というとこれまた冷めてしまうかもしれないのですが、ある程度一定の傾向はあるようでして、もちろん最終的には「気持ち」「熱意」「感性」が大切になってくるのは言うまでもありませんけれども、それを補助する役割としては非常に有用だとこれは最近確信したことでありました。

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