もう一つの弔い。

親愛なるあなたへ

知床の観光船事故で海上自衛隊の飽和潜水活動が2日目を終え、残りの行方不明者の捜索が待たれています。

ご遺族の方のお気持ちは察するに余りあるところがあります。

その中で、我々ができることは社会正義としての糾弾により、今後の再発を防止する、より豊かで安全な世の中にするのも一つの真実だと思います。

メディアによる糾弾をしばしば批難する小生ではありますが、真実の追求による豊かさ・安全性の向上、ひいては「人間お互いの信頼感」のための報道。

誰もが無視すれば(糾弾せずに許してしまえば)それらが危機に瀕する、まさにジャーナリズムの真骨頂である役割と言えるでしょう。

そのことも重々承知しているつもりであります。

その一方で「もう一つの弔い方」があるように思うのです。

我々は全く関係ない赤の他人に関する報道を聞いたときしばしば「公憤」にかられますが、その怒りの原点が純粋なものでなく「日常生活の私憤の転換」なのであれば、私が批難する「無意味な糾弾」になってしまう。

それを聞いたご遺族が果たして喜ばれるか、というのを考えてみる。

事件を風化させない、という意味で大いに騒がれるのはご遺族のためになろうとも、それが「私憤の形を変えたもの」なのであれば、実はご遺族の方々は報道から何かをかぎ取っておられるのではないか。

もちろんご遺族の方々が「今後このようなことがないように願っている」というお言葉の通り、大いに騒がれ、そして当事者は追求と社会的な制裁を受けるに値すると思います。

ですがそれともう一つ。

何の罪もないたまたま乗り合わせた、運命というには余りにも過酷な最後の一ページを迎え、天国へと旅立たれた人々がいる中で、たまたま自分が生きていることに対し「自分は何やってるんだ」と本気でその人生に目覚めるというのが、亡くなられた方々へのもう一つの弔い方になるのではとそう思うのですね。

今回の事故はよりリアルに伝わってくる感もあり、現場の方々のその時の様子を想うと胸が痛くなり、自分が今たまたま生きてることが本当に奇跡だと思う強烈なインパクトから、これは自分を知らなければならないと。

無駄に生きてはいけないと。

そういう今の自分への見直しみたいなものが、自分を見ているようで、実はもう一つ亡くなられた方々への心からの弔いになるのではないかと、そんな風に感じたのですね。

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