国葬と現代日本人の精神。

親愛なるあなたへ

安倍元総理の国葬が本日行われます。

それに対する反対論が多く出ています。

その理由はと言われると、山のように出てきます。

国会の議論を経ないで国の予算を用いる、旧統一教会と接点があった、現総理周辺で拙速に決めたこと、業績の未確定、安倍氏に弔意を持っていなくとも同調せざるを得ない内心の自由の侵害・・・

すごくシンプルに言って、一人の人間の魂がこれで浮かばれるでしょうか。

仮にも、一つの国を引っ張ってこられた方が、あらゆる形で世間の意識を変えるほどの最期を遂げられたのです。

それを、現在明確に制度が決まっていない国葬にここぞとばかりに水を差すことは、それは人として果たして正しいことなのか。

亡くなられた方の魂を置き去りにして、まるで自らが正義のように言論の嵐を吹き荒らす。

現総理周辺で拙速に決めたことは必ず何かしら理由がありましょう。

もちろん裏で我々が知り得ない目論見があることでしょう。

しかし、そんなことはどうでもいいのです。

「国家の審議を経ないで自分たちの血税を使って」と言う人ほど、普段は「命はお金ではかえられない」と言っているのです。

「旧統一教会と接点があった」と言う人ほど、殺人者の死刑が議論になる度に「命は何よりも大切だ」と言っているのです。

安倍総理の業績が未確定だからダメだということは、政府の深い部分に触れるのが不可能な我々一般人には分かり得ないことです。(先の現総理周辺で拙速に決めたことと同様に。私たちは安倍総理の政界の深い部分について何も知りません)

内心の自由の侵害。

全てを型にはめ自殺を棚に上げる今の学校教育がより議論すべき内心の自由の侵害だとされないのをとても不思議に感じます。

なぜこの場にだけ弁護士の先生方が出てきて声高々に「内心の自由の侵害」などと言えるのか。

現代の隅々に広がる闇濃く根深い現実的な「内心の自由の侵害」に比べれば、安倍総理の弔意に反するものがいかばかりか。

とにかく、「何か理由を見つけてやれ」という空気しか感じないのですね。

人が一人亡くなった。

それも、日本国家を率いてくださった方が一人亡くなった。

それが国葬国葬でないか、そういう話ではないのです。

憲法よりも、もっと大きなところに。

「自然の理法」

その大きさは、一国の元・首相だからという議論ではなく、私達が一人の死というものにどういう精神で相対するのかという大きさです。

亡くなられた方が、自らの死について懸命に引っ張った一つの国からああでもないこうでもないと言われて喜ぶと思いますか?

ものすごい複雑な力学が働き、そして目論見と裏事情がある政界・財界の方が決められたことなら、何度も言うように我々には分かりません。

それでいいではありませんか。

これが慣例化されて、ものすごい悪い事態に今後日本がなるとはとても思えません。

人が一人亡くなった。

それに対して喪に服すかどうか、内心の自由は人それぞれで構いません。

もしそれで内心の自由が侵されると反論されるなら、先ほども申し上げたとおり、そんなたった一瞬のことよりも、現在自殺する青少年たちの議論を今の100倍してください。

現在の制度で内心の自由を踏みにじられているより現実的なテーマにエネルギーを向けてください。

我々は命というもの、そして魂というものに口では立派なことを言うけれど、心では恐らくそんなに尊んではいない。

現代の我々には思いやりがない。

それは、自然の理法ともいうべきものが。

魂を拝する。

殺人者が死刑になったと聞けば、不思議に「当然だ」と思う人は少ないでしょう。

どこかにその魂を拝する気持ちがある。

多くの人間が議論を巻き起こすことで「みんながいるから怖くない」世間の追い風により、個人的な私憤を公憤のようにまき散らすその姿勢は、一人間の死に対し果たして自然の理法に適っているか。

一個人の死としては受け入れると言いながら、それが自分にすぐに被害は及ばない税金・お金の世界、明確化されていない法律、そして深いところで知り得ない情報の詮索が絡んだ瞬間に手のひらを返した態度を取る我々に、生と死を尊ぶ人間観、大和魂、それらが統合された「自然の理法にかなった精神」がどれだけ残っていることでしょう。

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