悲しんでくれる人。
親愛なるあなたへ
「自分が死んだ際に誰かが悲しんでくれるだろうか」
今元気であっても、一度や二度、そんなことを考えたことがあるかもしれません。
大切に想い合っているはずの家族でさえ日々の感情の揺れから一筋縄にはいかず、さらにはその後関係がどう変化していくかも分からない。
「誰かが悲しんでくれるか」という想いには、やはり人間の根源的欲求である「所属感」が隠れているのだと、しみじみと思います。
ですから、それくらい「嫌われる勇気」で説かれる「共同体感覚」は重要なことなのだと思います。
何をしていても、いつ死んでも自分は世界と一体である。
いつぞやも書きました、「都会派」の小生が感じる「過密であふれる人々は勝手に仲間」、というのが似たような感覚だと思っていて、積極的に死にたくはもちろんないのですが、死ぬ時に誰かに悲しんでもらいたい、という気持ちは不思議とないのですね。
みんなが仲間で見送ってくれる感じが「勝手に」します。
筆者は過去にうつ病をしたこともあって、そのときの「死」に対するイメージも経験していますから、一般的な「悲しんでくれるだろうか」という感覚は誰よりも分かると思います。
自ら命を絶ってしまうとき「自分が死んでも誰も悲しみはしない、世界は勝手に回っていく」という一節がある通り、そのくらい所属感というのは人間の存在意義の大きな部分を占めているのですね。
その共同体感覚を理解し体感する上で、非常に分かりやすいのが、記事の中でよく書いている「あの世」「魂」「輪廻転生」というお話なのですが、どういう形であっても世の中の人はみんな仲間であると「勝手に」思い込めさえすればいい。
そういう「勝手な解釈」が、今後世の中が幸せを感じるために捉えていく、最重要項目であるように思うのです。
by You