反動の具現化。

親愛なるあなたへ

個の時代に突入してから様々な価値観が明るみになり、またそれを受け入れようとする土壌が育ちつつあります。

地理学上の閉鎖性もある日本にとって、非常に大きな一歩だと思います。

しかし、その個の時代の反動が既に現れてきているようです。

かなりショッキングだったのが、今の子供たちは「友達の家に遊びに行かない」割合が増えていると言います。

というよりも「遊びに行かせてもらえない」。

それは子供たち同士というよりも、親同士の話だと思うのですが、昭和時代に自由に友人宅を行き来していた筆者としては、先の通り大変な衝撃を。

相手の親を良く知らない友達の家に我が子が遊びに行くと、その親が慌てて対応し深々と頭を下げながら「もう二度と遊びに行かせませんから」と謝罪するという。

私にとっては異様な雰囲気にしか感じられません。

何がそんなにまずいのか。

少なくとも相手の親御さんはある程度の了承込みで自宅へ上がらせているはずです。

「何か迷惑をかけていないか」「それによってSNSで拡散され大変なことになるのではないか」

謝罪した側の親御さんとしては、いずれも我が子を想ってのことだと思うのです。

周りへの配慮とともに、大切な我が子をSNS上の被害など危険な目に合わせてはいけないと。

なので、当事者同士についてここで述べることではないかもしれません。

それを生み出した社会について述べる。

親同士がよく知っていて、かつ了承がないと子供たちが遊びに行けない今の社会は異様です。

その原因はハッキリしています。

先の個の時代の反動、というのはつまるところ「許容範囲の縮小」。

一人一人個の自由度が増すと同時に、相手側との自由度が減る。

許すとは、まさに相手側との自由度の広さ大きさ。

自らの許容範囲が狭まれば、相手もきっとそうであるはずという連鎖が続き、おそらく先のような現象が具現化してくる。

そういった家庭環境で育った子供たちは、将来自分の子供たちへさらに遺伝させる。

より強力に。

個の自由は結構だけれども、相手との自由度・許しというものを。

許しを自らが持てば相手も許してくれるはず、という、そういう心を持てる。

それが以前ご紹介しました、事故物件を専門でお祓いされている金子雄貴宮司がおっしゃられている「つまらないことでぶつかり合いが増えていく」につながることなのではと。

今世の中で見てとれる自分勝手さの放任は許しなのではなく、個人と個人が切り離された虚無の空間に存在する無関心。

一見同じように見えても、虚無の空間に存在する無関心と許しは天と地ほどの差があるものです。

これもいつか書きました、我々大人が襟元を正さなければ、次の世代がそれを「許し」だと勘違いする。

間違ったことを正しいと思い、正しいことを間違いだと認識する。

これら一連の流れはどこに原因を求め、何を解決すればいいのかというステージにおいてはニワトリとタマゴの関係で難しいのは重々承知の上でありますけれども、これから大切になってくることだと思います。

まずは「そうなんだ」と意識するところが始まりだと思うのですね。

昭和の時代を懐かしむ一介のオッサンが言うことではありますけれども。

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