自らの正義と真実。
親愛なるあなたへ
「後悔のない人生」の一つの定義は、恐らく自らの正義に従う人生なのだろうと思います。
人は多かれ少なかれ、自らの正義を押し殺し社会に適合しようとする。
島国体質の日本で言うならば、忖度抜きで表現するならば、適合というよりも「迎合」の言葉がしっくりくるでしょう。
それが「正しく生きる方法だ」と。
そう学校で教えられる、親にも教えられる、社会に出ればそれこそあらゆる複雑な力学から体で学ばされる。
けれども「正しく生きたか」なんてのは最期自分が死ぬ時になって、自分一人にしか分からないこと。
これは常に意識しておりいつぞや記事にも書いたことなのですが、人生の正しさとは多数決では決まらないのです。
最期、自問したときの自らの正義。
程度の差はあれど、それが不可分に人生に対する満足度の指標なのであろう、と。
ワガママとの違いは覚悟の違いなのだと思います。
その覚悟の元で、自らの正義を下す。
「完全なる客観的な見方」は誰にもできないから、多かれ少なかれ人は「主観」により自らの正義を下すことになりますね。
そこへ多くの経験、多面的な体験、深い自省と内観を組み込むことにより精度を上げていくと。
ある程度の精度を確保できたと自ら信ずるならば、残りは完全なる主観と覚悟によって正義の旗を掲げる。
小生も未熟ながらの多面的な経験とその覚悟の元これまでやってきて、本当にその通りだと思います。
日常生活とのバランスをとりながら、いや覚悟のもとでは崩しながら、自らの正義を掲げる。
多数決では決まらない正義を掲げる。
しかし不思議なことに、もし数多の体験と内観から正当に導かれたものならば、その少数派であるはずの個人の正義が真実に近づく。
だから、偉人が言うことは皆似ている。
哲学者が言うことは皆似ている。
彼ら彼女らは、その思想を発表した当時、間違いなく異端扱い・理想論扱いされてきている。
真実の一端を担うと信じて、自らの正義を掲げるのです。
自らの正義がなぜ後悔しない生き方となりうるのか。
それはもう明らかでありますね。
p.s.
危険を顧みず、真実と正義に生きようと、最後まで疾走する猛者であり、勇者。
森永卓郎さん。
コメンテーターとしておなじみ。
以前ご紹介しました「書いてはいけない 日本経済墜落の真相」の著者。
すごい方です。
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