所有欲と仲間。

親愛なるあなたへ

「所有欲が少なくなるほど『周り』が仲間になる」

何かが欲しい、という欲を持つのも一つ。

それは記事を書き始めて以来、一貫して正当な欲を推進する筆者が保証することです。

けれども、もし「仲間」を欲しければ「所有欲を無くす」のも一つ。

「所有欲がある」と、「将来、所有したい」という希望の裏側に「今自分の所有するものが自分の属する世界だ」と認識する自分がいます。

となれば、「将来手に入れたいものを既に持っている世界」は仲間で無くなってしまう。

「これから手に入れたい」のに、「そちらの世界に行きたい」のに、それを所有している世界の人々が仲間でなくなってしまう。

一番分かりやすい例で言えば、よくカップルを見て羨ましいと思うのはそういう意味でありますね。

結婚もそう、子供を持つのもそう。

お付き合いのロマンスとか、結婚という運命とか、子供という天からの授かりものとか、美しい物語は色々つけやすく、「自分もそれにあやかりたい」という気持ちから「羨ましい」と思っているかもしれませんが、突き詰めれば始まりはそういうことだと思うのですね。

仲間ではなく極論「敵」だと思っているのです。

あとは経済力もそう。

貧乏波動の人はお金が欲しいと思っていても高級住宅街に行くと「居心地が悪くなる」。

豊かそうな人と一緒にいてもなんだか落ち着かない。

不思議なのですね。

正当な欲の推進論者として、何かを手に入れようと奮起するのは大変良いことです。

ただ、それを自分のステータスだと思わないのが所有欲を捨てるということなのでは、と。

そうすれば周りが仲間になります。

欲しい物が手に入っても、手に入らなくても仲間になります。

個人的には結婚もしてないし子供もいないし彼女もいないし経済的にも(まだ)厳しいものがありますけれども(笑)それでも所有欲がないので高級住宅街に住んで、本当に豊かで幸せそうなカップルや家族を見るのが極上の幸せです。

本当になんというのでしょうね、心が満たされるというか、そういう表現がピッタリです。

自分事のよう。

所有していないのに所有している感覚になる。

いや所有という感覚を超える。

所有の上に「一体」という概念を定義してみる。

所有欲を無くすと、所有しなくても「一体」になることができるのですね。

伝説のベストセラー「嫌われる勇気」の語る「共同体感覚」は、ある意味究極の所有欲である一体感を満たす、まさにそれを示唆しているのであろうと。

感覚を明確に言語化したり、そうなるための方法論を体系化したりするのは大変難しいのですが、今私が感じていることを素直に表現するならばこういうことになるでしょうか。

by You