微差を見抜く眼力。

親愛なるあなたへ

物事を肯定的にとり、希望を持ち、不平・不満、愚痴悪口泣き言を言わずに歩いていくと、「微差」が見抜けるようになります。

微差を見抜く眼力を持つようになります。

微差を見抜く眼力は悪口ではありません。

批判や悪口のように見えるけれども、質が全く違います。

これがどう違うのかを説明するのが非常に難しい。

by You

縁が強いものほど複雑である。

親愛なるあなたへ

人間関係で複雑な問題が起こる。

どうしても割り切れない複雑な問題が起こる。

逃げられればそれでいいけど、たとえば家族とか古い友人とか以前のパートナーとか。

極端な話、会社はやめてしまえばそこで一端縁が切れるけれども、それまでの「歴史」を含有している関係があると思います。

どうしても引っ張ってしまう関係。

それは、やはり縁が強いからだと思うのですね。

縁が強いから苦しむ。

そういうこともある。

でも、それは縁が強いから。

たとえば、家族以上に友人関係で悩むこともある、パートナーとの関係で悩むこともある。

こっちは離れられるけれども、こっちは心のひっかかりで離れられない。

そんな複雑な心理もある。

その複雑な中で、一端離れることも考慮に入れて、右往左往しながら時間とともに歩んでいくと「ああ、こういうことか」と納得できる側面もあるんだと思います。

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「T字型人間になりなさい」

親愛なるあなたへ

私は化学を教えているということもあって、日本人で初めてノーベル化学賞を受賞された福井謙一先生の名言が心に残っています。



「間口が広く奥行きの深い『T字型人間』になりなさい」



表面だけをなでる「一文字型」、特定の分野のみ深い「I字型」。

大概はどちらかに偏っているのかもしれません。

専門性はその分野に長くいれば自然とつく部分もありますから、間口が広い、つまり「視野が広い」というのが非常に難しいのだと。

ともすると「視野が広い」と思っていても、自分の分野でフィルターをかけていることもしばしば。

専門分野を持ちつつもそれにとらわれない視野の広い、「自由な心」を持った人間にお互いなりたいものです。

by You

必ず思いつかなかった分野で開花する。

親愛なるあなたへ

自分の運命に乗る、というのはですね、筆者が経験してきたものをできればそのままお伝えしたいのですけれども、それでも「難しいなぁ」と思います。

経済的成功こそまだですけれども最終的な運命の流れを実感できて、それは「こうだよ」と。

これまでも何となく感じ、記事にも強気で書いてきましたけれども、今回のは不思議な安定感というか揺るがない感じがするのですね。

簡単に言うと、まず「自分が最初に思ったもの」で運命に乗る、成功する、のではないということ。

もちろんそういう人もいますけれども、私も含め、9割9分の人間は「自分が何をやりたいのか分からない」「自分の使命が分からない」のですから。

なので、まずは「楽しいこと」「これしたいなと思うこと」「ワクワクすること」の方向に向かっていくと。

そのためにはやってみるしかありませんから何かちょっとでも「手がかり」があるのであればそれに向かって「行動する」。

「これやりたい」というのでも、最初は漠然としていますから、それが行動するにしたがって具体的になっていく。

そしたらそのまま具体的な運命に乗るのか、というと、そうではなくて、その中で自分が思いもよらない楽しいことが自らの才能とシンクロする点が必ず見つかるときがくるのです。

もちろん自分の「これやりたい」という漠然とした方向性は変わらないかもしれません。

ただ、自分の運命に乗ったとき、あまりにも予想外の流れにきっと驚いてしまうことでしょう。

「こうかな?」と思う方向に行動し続ければ、そうではなくても「思い出す」瞬間が必ず訪れるということなんですね。

by You

無意識なインプットと質。

親愛なるあなたへ

インプットすることは大切ではありますけれども、ものの精度を高めるにはアウトプットすることが何より大切だと、最近改めて感じるのです。

「インプットしないとアウトプットできません」という意見があるかと思います。

これは理論上全くその通りで、ないものを出すことはできません。

ところがですね、人間とは不思議なもので、知識や知恵、技術やノウハウというものはアウトプットを始めると「無意識のインプット」が同時に始まる。

これは呼吸と一緒で、吐けば必ず息を吸う、と。

複式呼吸でもヨガのマスターでも、必ず呼吸を「吐くこと」に集中します。

じゃあ吐きっぱなしでそのまま窒息して死んでしまうのかというと、これは神がつくった実に巧妙な体の仕組みで「自然に吸う」ようにできている。

無意識のインプットとは何ですか、というと、具体的には「日常生活の観察力」が鍛えらえるのです。

アウトプットすれば自分で気が付かなくても観察眼が鍛えらえる。

だから、ちょっとでもいいから、今できることから「発信」してみましょう。

「稚拙なアウトプットでは恥ずかしい」「周りの反応が気になる」ということもあるでしょう。

「アウトプットしすぎると質が下がりませんか?」という意見もあると思います。

でも、どんなものでも今やっているレベルから始めるしかありません。

それが成長ということ。

アウトプットしすぎると、一つ一つの質の上下はあると思います。

それは記事を書く私自身が感じていることで、決して全ての記事をMaxで書けているわではなく、満足いくものは今まで書いた3000個弱の中でいくつかあればいいかな、と。

それでも、一つ一つの上下はあっても、全体としてレベルが上がっていく。

これは間違いありません。

だからアウトプットしましょう。

発信してみましょう。

もちろんこれはこういうブログとかの話だけではなく、日常会話や会社での意見投稿、課外活動などあらゆることにあてはまります。

是非みなさんの意見が届きますように。

by You

「ただの人」へ。

親愛なるあなたへ

私がサラリーマンをやめて何を一番強く感じるかというと、「ただの人」へ戻るリスクなんですね。

人はみな所属感を持って生活しています。

その所属感があるから心の安定を保っていられる。

ところが普段それに気づくことは滅多にありません。

だから、定年を迎えたサラリーマンが目標を見失い、自分の存在意義を見失い、急に老け込んだり、精神的に不安定になってしまうのだと思います。

それは「ただの人」に戻ることに慣れていないから。

独立するとあらゆる大変なこともありますけれども、「ただの人」の状態から始めて自らの意義や価値を模索していくわけですから、その訓練ができる。

「ただの人」でいることができる。

成功者と呼ばれる人々の精神はさらに洗練されていて、「ただの人」を超えて「本当の自分」と「世間からの評価」の間をバランスを取って渡っていく。

幻想の一つとして「いきなり成功者になりたい」と多くの人が思うと思うのですけれども、普通の人がいきなり成功すると精神的に崩壊してしまいます。

そういう意味でも、試練を乗り越えないと幸せに成功できないから、神様はそういう「ラク」を与えないのじゃないかな、と。
ともかくまずは「ただの人」でいる訓練をしてみようではありませんかと思うのです。

所属感を放棄しろ、ということではありませんけれども、今いるところとは別の自分を想定しておく。

準備をしておく。

今いる環境とは別の何かを探してみるといいんだと思います。

それは小さいことからで全く構いません。

小さな種が育って大木になる。

「ただの人」は、大きな「本来の自分」ということになるんです。

by You