親愛なるあなたへ
その地域の経済力をはかる一つの目安が「電車と駅の雰囲気」ですね。
一つ、車内での読書率が高い。
そしてもう一つ、駅のコンビニ利用率が少ない。(コンビニ経営の方には申し訳ありませんが・・・)
すると電車車内や駅構内が「ハイソ」な雰囲気に包まれる。
自己啓発や勉強、そして余裕を持った計画的な行動をする、というのが経済力の高い一般行動あるあるだと感じました。
by You
親愛なるあなたへ
その地域の経済力をはかる一つの目安が「電車と駅の雰囲気」ですね。
一つ、車内での読書率が高い。
そしてもう一つ、駅のコンビニ利用率が少ない。(コンビニ経営の方には申し訳ありませんが・・・)
すると電車車内や駅構内が「ハイソ」な雰囲気に包まれる。
自己啓発や勉強、そして余裕を持った計画的な行動をする、というのが経済力の高い一般行動あるあるだと感じました。
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親愛なるあなたへ
どうしても物事が解決できないとき、そのときは社会秩序に則り法律や契約条項により制裁を下すことになります。
全てが魂の成長だと考えると、その制裁により物事が解決する、という安堵感に加え「相手の魂がここから何かを学んでくれたらな」と思う。
現世だけを見れば安堵感と同時に相手に対し「当然の報いだ」「ざまをみろ」と思うことがしばしばあろうとも、不思議な世界観に少しでも触れる機会があるならば、わずかばかりクッションが加わるようにも思う。
制裁内容の程度、相手方との関係など千差万別で一概に言えることではないかもしれませんが、その制裁により意外とこちらにもかかっている「心理的負荷」というものが相手の魂を想うことで良い方向へと解消に向かい、お互いの魂の関係性が一つ上に行くこともあるのではと、そんな風にも思いました。
by You
親愛なるあなたへ
過去にも何度か触れましたが、人生で最も大切なものは「勇気」です。
「勇気と覚悟」から全ては生まれる。
最も大切なのは「愛」だと答える人もいるけれども、本物の愛は勇気と覚悟から生まれる。
「自由」も勇気と覚悟から生まれる。
そして、「自信」も勇気と覚悟から生まれる。
自分を好きになる勇気。
あらゆる物事の決断を勇気ある態度で臨む。
自らの勇気ある態度を人生のいちばんの誇りにしていくのです。
それが自分を好きになるための究極の方法です。
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親愛なるあなたへ
外出時にマスクを外すようになって思ったことがあります。
それは、丸2年以上マスクを着けていると「マスクを外すのに抵抗感を感じる」。
外で素顔をさらす、という抵抗感ですね。
隠し事に耐えられない基本オープンな性格の筆者でありますが、「慣れて」しまうと不思議と抵抗感を感じますね。
しかしそこはアンチの精神が働き、周りがマスクしてようが何しようが「なにくそ」と外す(笑)
コロナでマスク生活を始めて少し経った頃「そうなるだろう」と感じてはいたのですが・・・。
それに関する記事を見つけ「なるほど、思春期さ中の若い方ならよほどだろうな」と思いました。
ここにも書かれている通り、マスクを外せないのは「マスクの下の相手の顔を勝手に想像し、想像と違ったときの違和感を他の人も感じているだろう」という心理からですね。
特に立体マスクは鼻の部分が直線的に作られ全体としてシャープな印象になりますから「美人度が増す」、という内容も気持ちは分かります。
それではこれからずっと「だてマスク」が続くのかというと、基本的にはまた元に戻るだろうと考えています。
マスクを外す割合がだんだん増えてくれば、逆に「マスクをしてるのは何かしら理由があるのだろう」と周りが勘繰るようになる。
先の「マスクを外したときに相手からどう思われるか」という心理と「マスクを着けたままで相手からどう思われるか」という心理が交錯する。
後者の心理が勝ったときにマスクを取るようになると思います。
もちろん最初の一歩はものすごく勇気がいるのですが(心理的な理由があって着用しているのですから)、一度素顔をさらしてしまえばなんでもありません。
コロナ前と「これまでと同じ」なのですから。
それに「マスクを着けたままで相手からどう思われるか」という心理が勝つということは、それだけマスクを着けていない人が絶対数的に多いのですから、すぐに「多数派の仲間になる」ので大丈夫です。
勇気がいるのは最初の一歩だけ。
歴史に目を向ければ以前スペイン風邪が大流行したときの日本人が全く同じ心理状態であったことは想像に難くありません。
いくら科学技術が発展し世の中が変わったとしても、先日ご紹介しました『国民の底意地の悪さが、日本経済低迷の元凶』で著者の加谷珪一さんが語られている通り、日本のシマ国体質がそう簡単に変わるものではありません。(この本は日本人の本質を突いた素晴らしい本だと思いますので、ご興味ある方は是非ご一読されることをおススメします)
そのスペイン風邪以降、「コロナ前まで我々が外でマスクをつけていたか」というとそんなことはありませんね。
それと同じ流れが今回も起こると思います。
歴史は繰り返す、という言葉があるようにですね。
ただ、マスクがこの2年で市民権を得たことで良いことがあって、先にご紹介した記事の中にも書かれていました「表情を読み取られず、話したくないアピールにもなる。先生に怒られてもダメージが少ない」「顔を覆って自己防衛し、コンプレックスや自信のなさをカバーする」と。
人から見られるのが怖いという心理をマスクでカバーすることができる、というのは本当だと思います。
また不思議な話で言えば、外からの「波動」をマスクで防御する、また自らの波動をマスクでブロックする、これは筆者も経験があります。
コロナになる大分前に書きました「マスクの効用。」という記事にもその旨がありまして「気が抑えられる」と。
なので、将来だんだんとマスクをする割合が少なくはなれども、何かしらの理由があって「外からたとえ勘繰られたとしても」マスクをして外出する方が当人にメリットがあるのであれば、一定数残ったマスク派の共通認識として「仲間がいる」と思えればたとえば家で引きこもるよりも外の世界へ一歩を踏み出せるキッカケになるのでは、と思っています。
「基本的には」また元に戻る、と先ほど言いましたが、完全に全員がマスクを外した状態になるのは、これはスペイン風邪時代と異なる現代特有の人間関係(代表的なのはSNSによるものですね)がありますから、時間はかかると思います(思春期の世代に関しては特に)。
『若者のマスク依存を「対面コミュニケーション不全の一つ」と指摘。人との直接的なやりとりに苦手意識を持つSNS世代の「新たな現代病」になりつつあるとみる』と記事にはあったのでが、私はそうは思わず前述のように有効に活用していけばいいと思います。
マスクを外す方向には自然と向かうことになるでしょうし、またマスクを着ける層が一定数存在する期間が長引いたとしても「社会活動上非常に有用なツール」が市民権を得たわけですから、どちらであっても心配は全くの無用ということだと思うのですね。
by You
親愛なるあなたへ
「言葉の重さ」というのがありますね。
言葉が軽く聞こえる人もいれば、ものすごい説得力のある人もいる。
言葉が軽い・重いと言われると「感覚的」な話ですが、「理論的に」この現象はどこから起きるのか。
よく「経験したこと」は説得力があると言いますが、あれにまさにヒントがありそうです。
つまりその状況を思い出しながら話せるときに言葉は重くなる。
なので、経験していなくても思い出しながら言える人は言葉が重くなる、ということに。
現在経験していなくても、魂が何かしら前世における経験なり学びを「思い出せる」なら言葉が重くなります。
個人的な例えで失礼すれば、たとえば私は死後の世界を見たわけでも霊魂を見るという超常体験をしたわけでもないのですが、どういうわけか妙にこの系の話は説得力を持って聞いてくださる方が多いですね(笑)
それから先日も書きましたけれども「子供を持ったことがないのに親が持つ深層心理について」なども。
たまにいますけれどもね、経験したわけでも魂が分かっているわけでもなさそうだけれども「テクニック」で重さを表現できてしまう凄腕プレゼンターが。
でもそういうことって普通は少ないですから、やはり「経験したこと」がもっとも説得力が強くなります。
なので、最初に書きました「ヒント」通り、話をするときは経験ありき、ですね。
p.s.
逆に言えばいくら経験していても思い出しながら言えないときには言葉が軽くなります。
でも人間の経験が脳裏から全て消えることはなかなかない、というのは同意いただけると思いますのでこの点は安心して大丈夫でしょう。
経験すれば、必ず重み・説得力を持って相手に伝えることができます。
by You
親愛なるあなたへ
「お金への執着」。
豊かさを手に入れ、かつ幸せになるために「手放す対象」です。
お金持ちでなくても、そこそこ経済的に恵まれつつも幸せになれないのは「お金への執着」が一つの要素であると思います。
先日ご紹介しましたスパイト行動と経済学についての記事に書かれていたことなのですが、「日本はお金についてオープンに語ることを嫌う風潮がある」と。
そして「お金がないと幸福ではないと考える傾向が強いからこそ、お金を持っている人を妬み、足を引っ張っている可能性が高い」と。
それらの関係性を要約すれば「日本における自由度の低さ」なのですが、詳細については先の記事をご参照いただきまして。(さらにその記事の著者である加谷珪一さんの『国民の底意地の悪さが、日本経済低迷の元凶』も。小生も早速Amazonさんで購入しました)
今回は、それでは「どうしたらお金への執着が消えるのか」という私なりの見解を書いてみたいと思います。
人間は不思議なもので「隠すと気になる」という性質があります。
他人の秘密を知りたいという世俗の欲求から、宇宙の法則を解き明かしたいという高邁な理想まで、全ては「隠されているものを明らかにしたい」という結論に行き着きます。
知的好奇心とも言えますね。
性的な部分もそうで、直接的なセクシャルな話でなくとも例えば恋愛においても「隠れた方が盛り上がる」。
これは同意していただけるのではないでしょうか(笑)
お金についてもまったく同じことが言えると思うのですね。
要は、お金の話をしないからお金が気になる。
お金の話をみんなで隠すから、何かそれがとてつもない価値を持っているように感じる。
幸福度のパラメーターのように感じる。
ところが、ひとたび明らかになってしまえば熱狂は収まり、ほとぼりも冷める。
先の他人の秘密、宇宙の法則、セクシャルな内容に関してもそうです。
明らかになってしまったものには人間はそれ以上の興味を示しにくい。
なので、お金への執着を消すもっとも手っ取り早い方法は「お金についてオープンに話をすること」だと思うのですね。
大阪に14年お世話になって思ったことは、大阪の人は他の地域にくらべてお金のことをとてもオープンに話します。
これは他県から見ていてもよく分かることだと思います。
そのことから他県の人は「大阪人はお金にがめつい」と思っています。
ところが実情は違う。
関東出身、そして北海道や九州など色んな地域を回ってからの大阪住まいの感性ですのでこれは「統計学的に」自信があるのですが、大阪人ほどお金に執着がない人種は日本にいないと思います。
商人の街ですから「なんぼ?」とお金の話はするし金銭感覚もシビアなのですが、それらは全て商人が求める金銭感覚、つまり「経済を回すという豊かさ意識」につながっています。
いつかも書きました「大阪人はステータス意識を排除する」という内容にもつながり、きちんとその裏付けが取れているのですね。
表立たせることでその裏側にある「よく分からない価値への期待」を消す。
「お金への執着」はあくまで「期待値」にすぎないのです。
ですからその期待値を消す、すなわちオープンに話をすることが豊かさを求めつつもお金への執着を消す具体的な方法の一つだと、そのように思います。
by You
親愛なるあなたへ
親は必然的に子供を守る立場になりますから意識的にであれ無意識的にであれ「優位に立とう」とします。
そうしなければ子供を守ることは難しい。
しかし、子供が自分の足で歩けるようになった後もその優位性がいつまでも残っていると今度は歪んだ形で出てくることになる。
これが親子関係における諸問題のほとんどの原因です。
親は「子供に自立されるのが怖い」という恐怖を潜在的に抱えています。
子供に堂々と意見されるのが怖い。
親は「子供の扶養」という最終カードを持っていますから、そのカードを持ってるぞ、という何かを子供に言語・非言語で伝えることにより子供から意見されるのを防いでいます。
「そんなこと言うならお金は出さない」「そんなこと言うなら自分でやりなさい」「そんなこと言うなら縁を切る」
簡単に言えばそういう最終カードですね。
親は自分の方針で子供を育てていますからその育て方が「正しい」と思っています。
これも記事を書き始めたばかりの頃に言いましたが、自分が正しいと思っていれば、相手が別の道を歩こうが何しようが余裕を持って送り出すことができます。
正しさはいくつもあり、相手が正しいかどうか分からないけれども少なくとも自分は正しいと知っているのですから。
しかし現実的には最終カードをちらつかせるという行動が現れてくる場合が多い。
それは、裏を返せばそれだけ「子供に意見されたくない」という恐怖心が強い、ということになります。
簡単に言うと自信がない。
「自信のなさ」と「正しさへのこだわり」の差が大きければ大きいほど強烈な最終カードを出してくる。
実は親になるというのはこれを学ぶことが目的なのです。
もっと簡単に言えば「人はそれぞれ違うんだ」ということ。
多くの大人は「人はそれぞれ違うんだ」と口では言ってても本当は思ってないところがあるのですね。
すると神様は「本当にそう思っているのですか」と、子育ての試練を与える。
子供の道を賞賛してくれる親はほとんどが「親自身が望んだ」「親自身が操作した(意識的にであれ無意識的にであれ)」道を歩いた場合です。
自分の思惑や予想とは全く違う、自分の価値観とは全く相入れない道を歩んでそれをそのまま賞賛できる素晴らしい親御さんは本当にごくわずかだと思います。
そういう親御さんは素晴らしい魂を持っていらっしゃる。
でも、我々の魂も子育ての試練を繰り返すことでそこまでいけるのですから、まずはこういう情報に触れる。
聞きたくない「ドキっ」とするような情報に素直に触れてみる。
すると魂的に次のステージに行けるばかりか、この現世でも子供さんとの関係が良い方向に向かうように思うのですね。
p.s.
かくいう筆者はどうかといえば、私は子供を持ったことがないのですが「指摘されることについて。」という記事でも書いた通り子供さんや生徒さん、若い人たちに指摘されるのが不思議とあまり怖くないのですね。
間違ってたなと思ったら素直に謝るし、行動の理由を聞かれれば自分の信念を説明する。
行きたい道があるのなら自分が全く知らない世界でも「面白そうだね」と言ってあげる(これはフラフラする好奇心の塊、自由人の性でありますね(笑))
もともと私も「子供が欲しい派」(それもなぜか女の子が欲しかったですね)だったのですが、そういうことにいつしか気づいてそのまま生活を送ってきたら神様が「子育ては今回はもういいよ」と言ってくれている気もします。
by You