効果的なヒューマンスキル。

親愛なるあなたへ

大人になってからこそ「相手の才能を見抜く能力」がヒューマンスキルの一つになるでしょう。

もし「この人と仲良くなりたい」と思ったら。

思わない場合は無視でも構わないとは思います。

まずは自分が好きになった人、仲良くなりたい人に。

この競争社会の中、ほとんどの大人が相手の才能を見抜かず逆に蹴落としているのが実情ですから、このスキルは非常に希少である。

人間関係を向上させようと思ったら、変なテクニックに走るより相手の隠れた才能に目を向けてみると思わぬ効果や展開が得られるに違いありません。

もちろん見抜くには修行が必要。

まずは何でも肯定的に、さらに自分の才能を見抜く必要がありますから簡単なことではないとは思いますけれども…。

一朝一夕にはいかないスキルですが必ずや効果を期待できることでしょう。

by You

雑草は最強の人生である。

親愛なるあなたへ

周りに何もないコンクリートに、凛とした姿で生える雑草を見て「すごいな」「素敵だな」と勇気をもらえる人は、将来成功することができます。

雑草はどうやって生きているのか不思議なくらいです。

コンクリートには栄養も何もありません。

真夏の熱射に照らされながら雨も降らないのに鮮やかな緑を生い茂らせる。

きっと深い深い根を張って、コンクリート塗装のはるか下から水分と養分を吸っているのでしょう。

でも、その根を張る前は、種の状態はもっともっと小さいのに養分も何もないコンクリートでどうやって生きてきたのか。

そのコンクリートをめくり上げる力はどこから湧いてきたのか。

成功する人は、そういう想像力が働く人です。

自分自身がそういう経験をしてきた人です。

そのくらいの苦労は覚悟の上です。

自分らしい生き方、それは雑草のような最強の人生である。

自分の生き方を見直すにはインドやヒマヤラで悟りを開く必要はありません。

雑草を見てどう思うか、に尽きると思うんですね。

by You

反学歴社会派が賞賛する理由。

親愛なるあなたへ

予備校講師をやりながらも個人的に「反学歴社会派」を前面に押し出しながら生きてきた今日この頃。

学歴には劣等感がそこまでないのですがなぜそこまで反発するかというと、それが及ぼす社会への影響についてだと思うのですね。

無限の可能性を秘めている若い人たちへの影響を考えるからだと思うのですね。

ただ、そのアンチ学歴社会派が、東大生や京大生(いわゆる「高学歴」というイメージを分かりやすく書いています。他の大学でも優秀な方はいっぱいいらっしゃいます)は、基本「尊敬する」という位置づけになっています。

ガチガチのアンチ学歴派が「東大生、京大生大好き」。

それは、高学歴の人は結果を出すことに執念を燃やすタイプが多いからです。

結果が全て、というシビアな世界を知っている人が多い。

もちろん、その勝因がもとで傲慢になって「勘違い」の方に流れてしまう人も多いと聞くので、それは残念なのですけれども、やはり基本精神力・人間力が鍛え抜かれている。

私はシビアな世界で生きてきた人と付き合いたいなと思っています。

シビアな世界で生きると人生を考えざるを得なくなり、結果として深みのある人間になるからです。

by You

力の必要性。

親愛なるあなたへ

「力」というのは現代に必要なものです。

現代の人類の知能レベルでは平和を守るには力がいる。

普段あまり気にしませんが、日本の治安が守られているのは警察の方が一生懸命「抑止力」を発揮してくださっているおかげです。

もしなんにも「力」がなかったら平和はない。

古代よりは大分進歩してきたとは思いますが、それでもまだまだ力がないと自己管理ができない、善悪の判断が難しい我々人類なのですから、力を一概に否定すべきでもないと思うのですね。

p.s.

戦争などはその力が暴走してしまったもの。

ですから戦争などを肯定するものではありません。

組織や家庭内などでの権力の乱用について否定してきたこともあります。

あくまで「抑止力」としての必要性がある、ということです。

ただ、その力を「否定」することで自分たちの管理能力を磨いていく。

そのせめぎ合いだと思います。

by You

直接、間接的に。

親愛なるあなたへ

人の役に立って喜びを感じるときは人それぞれの個性があると思います。

接客業で人に奉仕することを喜びと感じる人もいますし、営業で自分の物を売り込んで役に立つという喜びもあります。

大きく言えば、人に直接関わるか関わらないかでも個性がある。

人と直接触れ合って役立つ喜びを感じる人もいれば、人は苦手だけど、自分の作品を通して世の中の人とつながる、自分の構築したシステムを使ってくれている人を見ることで喜びを感じる人もいます。

喜びの感じ方は人それぞれ。

なんか「人と直接触れ合わないとダメだ」、みたいな風潮が世の中にありますけれどもそんなことはありません。

直接的に触れ合うのも、「直接、間接的」に触れ合うのも、何が心満たしてくれるかは自分の感じ方次第です。

by You

信念と社会的美徳の対決。

親愛なるあなたへ

信念がある人の話は、「聞いてから」理由が分かることがあります。

意固地な筆者が言うのも変ですが、「なぜそこまで意固地になって?」と思うのですけれども、やはり信念のある人には何かしら感ずるところがあります。

最近よくお話させていただく予備校の先生に関しましても、筆者的にも、そして世間一般からも「なぜそのやり方なんだろう」と思われるところがあるのですが、感性の面からお話を聞いてみたいなと思いご一緒にお食事をさせていただくと、「なるほど」と。

その方も過去の大変な自分の経験をさせまいと生徒さんのためを思ってやっているのがよく分かりました。

では筆者がそのやり方を認めるかというと、そういうわけではありません。

実際にそれでトラブルになったこともよくあるそうです。

ただ、やり方に「嫌味」がなかったので是非お話を聞いてみたいなと。

自分の信念でやったことは、それが正しいかどうかは分からなくても何かしら具体的な答えが出ますから私は好きです。

逆に、「人を傷つけるから」とか「世間に迷惑をかけるから」という「言い訳」で動かない人を残念に思います。

もちろん人を傷つけず迷惑をかけないのに越したことはありませんが、それが歪んだ美徳となって世間に蔓延しているように思う。

殺人やテロ、その他反社会行為の動機(つまり「信念」という形をとって殺人などを「正当化しようとする」)として用いるのはおかしいけれども、その抑止力として働くはずの「人を傷つけるな」「迷惑をかけるな」という力の方が、より歪んだ形で世間に蔓延しているように思う。

逆説的にはなりますが、世間が本当にその人が信念を忌憚なく発揮できるような世界であれば、そういうヘタな反社会的信念は出にくくなってくるように思うんです。

by You

見抜く人。

親愛なるあなたへ

お世話になっている予備校で親しくさせていただいている先生とお食事に行ってきました。

その先生のサラリーマン時代に上司となった方が「上には歯向かうけど下には親身になる」という理想の上司像のような方だったそうで、その上司の方は毎朝誰よりも早く出社する、ということをやり続けた方なのだそうです。

その思い出話のときにおっしゃっていたのが、「どんな小さなことでも『自分との約束』を守り続ける人って、すごいと思うのですよ」と。

その先生は非常に信念の強い方で私もそのことを感じたのでご一緒させていただいたのですが、そのことを短いサラリーマン生活期間のうちに見抜いた先生こそ、やっぱりすごい方だと思いました。

by You