気遣いの気持ち良さ。

親愛なるあなたへ

マナーのいいところでは気持ち良さを感じます。

いつも利用している阪急神戸線は、関西圏で高級住宅街を通る路線として有名で車内のマナーもとてもいいと感じますね。

マナーを守るのはお互いの仲間意識。

席の譲り合いとか混んできたらちょっと奥に行くとか、そんな当たり前のことですが人間が最も所望する「所属感」を一番簡単に手に入れる行為がマナーを守ることだと思うのですね。

全然知らない相手であっても、以心伝心のようにお互いの気遣いが伝わってくる嬉しさというか。

一方的にマナーを守るだけではなくマナーの守り合い、というのが日々の幸せの一つだと噛みしめている今日この頃。

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旅好きのサービス。

親愛なるあなたへ

オンラインで授業をしていて、ふとした時に外の景色を動画で送ってあげたりすると思いのほか喜ばれますね。

全国からのオンラインなので「旅した気分」になれるのかもしれません。

モチベーションにつながります、という感想もいただけてサービスの評判は上々のようです。

完全に旅好きの旅好きによる旅好きのためのサービスですが、自分の趣味を「少し薄めて」世間との共通点を見出すのが「アタリ」なのではないかと思います。

個人の趣味って結構濃い味してますから、それをそのままぶつけてしまうと相手は「引いて」しまうかもしれません。

自分が持つ意外な趣味を一歩薄めて世間へサービスしてみる。

そこにヒントがあるかもしれません。

p.s.

そして「手ごたえ」があるなら、さらに味を濃いめにしていってファンをつくるとかですね。

ビジネスにも応用できるでしょう。

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神作。

親愛なるあなたへ

普通に見ていてもあるとき固定概念を覆されるその瞬間に人の心は揺れ動く。

大反響になっている作品だそうです。

私も最初普通に「ふーん」と見ていたのですが最後の方になってきて、その「見始めの固定概念」が崩れ去り大きなショックと感動を覚えました。

現代に投げかける一つのメッセージ。

涙と感動なしでは見れない素晴らしい作品です。

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退化的進化。

親愛なるあなたへ

耳の動く人が1000人に1人の割合でいるそうですね。(さらに片耳ずつ動かせる人が1万人に1人いるのだとか)

筆者もそのうちの1人なのですけれども、昔から動くのは当たり前だと思っていて「どうやって動かすの?」と聞かれるのですが、ただ「力を入れればいいんだよ」と。

逆に動かない人がどういう感覚なのか分からない、というのが実感ではあるのですが(手を握ってと言われて「どうやってやるの?」と聞かれれば「力を入れればいんだよ」というのと全く同じですね)。

耳が動くのは太古のなごりで「情報を耳から得る」「周りを警戒するため」なのだそう。

動物(身近なのでは野良猫さんですかね)が寝ているにも関わらず耳を動かすことがありますね。

危険と隣合わせなので常に周りを警戒しているのですね。

耳の穴から外側の部分を動かす筋肉である「耳介筋(じかいきん)」という一連の筋肉群があるそうなのですが、人間はこれが著しく退化しているそうです。

文明が発展し、安全が確保されてきた人類の歴史においては必要なくなったのかもしれません。

なので、現象論的に言えば「動かない方」が「進化型」。

飼い犬さんの耳が動かないのは人間と同じ「安心しているから」なのだそうです。

しかし太古の名残が残っていると「より自然に近い」ということでもありますね。

私は大学で量子力学なるよく分からない現代の根幹の理論に触れましたが、結局自然へ、そして宇宙の真理へと近づく方法論であれば、太古の現象として残っているか、数式を駆使した理論で迫っていくかの違いであって方向性は実は全く同じである、と。

なので、過去の記憶が残っている「退化型」であってもおそらく現代では「得する進化型」なのでは、と思っています。

耳で色んなものを感じる、と書いてるところに通じるようにおそらくは「耳がいい」のでしょうね。

絶対音感の人が苦労するようにあまりに耳がいいと大変なこともありますけれども、個人的には「量子力学よりも耳が動くこと」であると。

よく分からない結論ですが。

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自由を希求する人。

親愛なるあなたへ

自由を希求する人は自らの価値を自分で決められる人です。

自分で決めたい、と思う人です。

自分で決められるから他人からの承認欲求が薄い。

自らの価値を自分で決める、それが自立の一つの形でもあるでしょう。

誰もが自由になりたいと思っていますが、自由になってみて「思ったのと違う」という感覚は恐らくは全員が通る道。

生来一人旅が好きで自由の素質があると感じる小生でさえ、自分らしくフラフラしているとその心理的不安定さに驚くことがあります。

私が哲学・宗教・生き方を含めた「精神的な部分」を勉強したりそれを実体験と結びつけるのに重きを置くのはそういう理由もあるのですね。

自由は「足場」つまり「人生の本質」を固めておかないととてもじゃないけど立っていられないくらい不安定なものです。

しかし、その自由を敢えて希求し、断行する。

なんでも自分で決めるというのは思った以上に大変ですし、何より最初は「価値を感じにくい」と思います。

人間は他人に指示され他人目線で生きて他人からの承認をもらっていた方が絶対ラクなんですね。

その代わりそれをいつでも覆される、というリスクがある。

私はそのリスクが嫌だったのですね。

だって「安心できない」じゃないですか(笑)

多くの人が自分で価値を決めていると思っていますが実際のところはほとんどが他人目線なのです。

それは日本のムラ社会・島国体質が家族・地域や学校はおろか、本来は利益追求という純粋な目的に向かいシステマティックで合理的であるはずの「企業」にさえ及んでいるのですから、24時間365日他者承認にさらされ続けていることを思えばいたしかたありません。

自由の力は選択する力。

「東洋の奇跡」と呼ばれ、戦後の焼け野原から先進国入りを果たした日本の経済発展の秘策「レールに乗っていく」という現在の画一的な教育環境がいまだに尾をひきずっている社会構造を思えば、義務教育や学生時代に自由の力・選択する力を養えないのは自明であります。

とすれば、社会に出た後自らつけるしかない。

しかし自由度と流動性が低い日本では社会に出た後でもそれを実行するのは至難の技。

現実的なところではそんなに簡単に転職できない、独立できない、ということですね。

だから覚悟が必要。

自由、自立、覚悟、勇気、承認欲求からの解放と選択する力。

自由と一言でいえば「自分勝手」「気まま」で終わらせられてしまう概念が、傍からの見た目や表面的な言葉の響きとは裏腹に、人間として成熟した一つの最終形態であると私は思っています。

それを希求していくのが人間の本来の姿であると。

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泥臭く始めて泥臭く続けた者勝ち。

親愛なるあなたへ

なんでも最初はスマートに始めようとしますよね。

スマートに始めればスマートに続きそうな気がする。

でもスマートに始めようとするといつまでたってもスタートが切れません。

例えスマートにスタートが切れたとしても絶対スマートになんか続かないのですよ(なんか言葉遊びみたいですね・・)

ホントに不思議なのですが。

わたくしも色んなことを積極的にやってきた方ですが、ちょっと気が緩むとスマートに始めようとする癖が出てスタートが切れない、というのが今だによくあります。

「準備ができたら」「時間ができたら」という言い分が要は「スマートに」ということですね。

今日は5分しか時間がないから、明日もうちょっと時間ができたときに、と言う感じですね。

すると不思議なもので明日もやらない。

その5分の間でも手を付けてみる。

泥臭く始めて「こんなたった5分で何も進まなかったのに意味あるのか?」というスタートを切ることが道を開く永久不滅の方法ですね。

周りがぐちゃぐちゃだろうが時間が5分しかなかろうが、今やれることをすぐにやる。

泥臭く始めて泥臭く続けた人がやはり最後に人生で勝ちますね。

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物の置き方。

親愛なるあなたへ

私は相手の品性を物の置き方で見ます。

「耳」で色々なものを感じると書きましたが、相手の品性も物の置き方でだいたい分かります。

品のいい人は物を静かに置く。

バッグでもコップでもなんでもそうですね。

たとえばコップは、コップを持った手の小指の腹をコップとテーブルの間にはさみながら、コップの底の一端をテーブルにつけ、残りを先程挟んだ小指の腹の上を滑らせながら置くと音を最小限にできます。

音というのは常に出ますから、その常々出る音に配慮するのがすなわち周りの人への常々の配慮、ということになります。

音が品の良さを表すもっとも分かりやすい指標ですね。

by You