無我夢中。

親愛なるあなたへ

勇気の二部作として大ベストセラーの「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」(著:岸見一郎・古賀史健)。

そのうちの「幸せになる勇気」を久々に読み返してみました。

そこに書かれているのは「自立」について。

「自立とは『わたし』からの脱却である」

それがアドラー心理学で言う最難解の「共同体感覚」。

貢献感が幸せである。

貢献感が「わたしたち」に主語を切り替え、「わたし自身」はなくなっていく。

「わたし」は世界の中心ではなく世界の一部であることを悟り、そして宇宙を含む「共同体」に「わたし」は還元されていく。

それを自立と呼ぶのでありましょう。

これを具体的な行動に置き替えてみたらどうなるだろうか。

「無我夢中」という言葉があります。

無我夢中。

そのときこそまさに「わたし」が消えてなくなるときではないか。

好きなことをしているときは誰もが無我夢中。

私は好きなことを見つけようとよく書いていて、自らも実践し十数種類の仕事を試し他にも色んなものに手を出した結果やっと見つけたという経緯があります。

心底好きなことを見つければ我がなくなる。

つまり、「好きなことを見つけること」が「自立」の具体的な一つの方法論なのだと思います。

なんだそんな子供っぽい結論、自分勝手な解釈、と思うかもしれませんが恐らくこれがもっとも実践的でシンプルな答え。

好きなことを見つけるのは難しい。

人生を賭けられるライフワークを見つけるのは本当に難しい。

世の中の多くの人がそれを見つける勇気がないから「わたし」にとどまっているのかもしれない。

だから好きなことを見つける。

そして大概それは「想定外」のところに。

それくらい好きなことを見つけるのは大切なことで、逆に言えばそれだけ見つけるのが困難な理由も分かるのです。

でも、諦めなければ必ず見つかりますからね。

やってみて確かめてみました。

必ず見つかります。

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本の読み方。

親愛なるあなたへ

本を読む。

本は読み始めただけでも希少派。

別に希少価値を競うわけではないけれども、やはり本を読む人と読まない人では人生が全然違ってきますね。

社会人になって本を読む人はすごく少ない。

本屋さんの混み具合から想像するのとはまたギャップがあります。

電車の車内の様子を見ると分かりやすいですね。

皆さん職場でも家庭でも日々忙しい中、もし本当に本を読みたければ「数少ない一人になれる貴重な移動時間」で読むはずですが、その割合は圧倒的に少ないでしょう(スマホタブレットを使って電子書籍で読んでる方もいるかもしれません)。

私ももともと本を読むなど皆無の世界で生きてきた人間ですが、20代の終わりに読み始め今はこうして文章を書く立場にいることで一つ気づいたことがあります。

それは、本を読むのは知識や思想を吸収するという受動的な要素がある反面、何かしら本に対するリアクション(対思想・心理的な)を無意識のうちにしている、ということなのですね。

テレビやラジオと違い、本を読む行為が「能動的」と言われる由縁でありましょう。

本を読み始めただけで十分に能動的な作業です。

それプラス、そこに書かれていることに対し「自分はこう考える」という、より何か明確なリアクションが始まったならばそれが「自分らしい人生の始まり」です。

大体の人は本の感想を聞くと「まあ色んな考え方があるからね」という感じで「自分の意見」というのを無意識のまま眠らせているケースが多いのですね。

無意識なところから顕在意識、言語、あるいは活字に掘り起こしてみる。

リアクションは何かしらの今までの経験と決断の繰り返しの結果としてアウトプットされています。

すると目の前の本に対する意見はこれまでの「なんとなくの人生の延長」の中で得た経験から出てきたものだったとしても、脳は不思議なもので「じゃあそういう意見が出たなら、自分はこれからどうするか」と考え始めるようです。

私が記事を書き始めて人生が変わったのも間違いなくその脳のシステムのおかげだと思うのですね。

自分らしい人生の始まりです。

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気分の問題。

親愛なるあなたへ

我々の日常がいかに「気分に支配されているか」。

どんなに論理的に振舞ったつもりでもそれが気分に支配されている、と。

私は男性なので男子トイレの様子しか分からないのですが(女子トイレを知っていたら恐ろしいことになるのですが)、これは男性の皆さま納得していただけると思いますが、男の人はお手洗いを出るときに洗面所で指先だけをチョチョっと濡らして出る人が多いのですね。

「手を洗った」と。

いやいや。

白状しますと私もよくやってしまうのですが完全に気分の問題です。

論理的と言われる男性でさえ「手を洗った」という論理を通しているけれども全く実態とかけ離れた気分の成せるワザ。

気分とは恐ろしいものですね。

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自信にこだわらないのが自信である。

親愛なるあなたへ

よく「自信を持ちたい」ということが言われますが、実際の自信は外から見て分かるようなものではありません。

たいていビジュアルから伝わる自信は「自信があるという雰囲気を出したい」という「承認欲求」である場合がほとんどです。

私も過去自信にこだわっていた頃の記事を見るとそのような文章が散見され(飛び出した頃は正直どん底で自信がなかったものですから)、確かにそのときは自分に自信があるという「外からの見た目」にこだわっていたようにも思います。

自信とは「自分を信じる」ということなので外からの見た目は関係ないのですね。

逆説的にはなりますが、当時の私で言えば外からは恐らく自信がなさそうに見え、先に自分でも「自信がなかった」と断言しているほどですが、それでも飛び出してしまったということは「自分を信じてた」という以外に説明がつきませんから自信があったのかもしれません。

そうするともはや何を持って自信と呼べるのかが分からなくなり、結局自信とは結果論であり、そこにこだわる必要がないという事実が見えてきます。

傍からは威風堂々・自信満々のように見えても次のタイミングで窮地に迫られると急に自信をなくしてしまったり。

そういうことはどんな成功者でもどんなにテレビで輝いている人でも起こるものです。

我々がビジュアルや自らの感覚を通して感じる自信とは一過性のものに過ぎません。

自信・自分を信じるとは「自分を好きになる」と同義であるため、そこに置き換えると分かりやすいと思います。

自分を好きだと「認めてほしい」というのが世間一般で言う「ナルシスト」に相当するのでしょう。

彼ら・彼女らの心の根底にあるものは、自分が好きなのではなくて「自分を愛しているということを知ってほしい」「自分に価値があると思っていると知ってほしい」という承認欲求です。

その場合は自分全体ではなく、頭の良さや美貌など、自らの一部分に固執するケースがほとんどです。

なので、彼ら彼女らが感じている自分が好きという感覚も、それらが失われてしまえば窮地に立たされる。

先の「表向きの自信」とまったく同じことが言えるわけですね。

自信にこだわらなくなったとき、おそらく本物の自信が手に入る。

具体的な処方箋は、何度も書いてます通り楽しいこと・好きなことをする。

これが「自信にこだわらない自信」というものを体感的に教えてくれる究極の方法です。

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心臓との絆。

親愛なるあなたへ

私は小さい頃「川崎病」という病気にかかったので人より心臓が少し小さい、と聞いたことがあります。

未だに原因不明の疾患で、予後は動脈瘤などの可能性があるのですが自分の場合はありがたいことに「完治」ということになっています。

生活上は特に何ともなく運動も普通にするのですが、40歳を超えてそのことを意識すると何となく心臓ともっと仲良くというか、もっと「会話しなくちゃな」という不思議な気持ちになりました。

我々が死ぬ直前まで付き合ってくれるのが心臓ですから(心臓が止まった後も脳などが働いて意識面をサポートしてくれることもあるとは思いますが)、なんとかその絆を大切にしていきたいものだと。

なので数年前から、「寝る前に心臓のところに両手を当てて」「ありがとうありがとう」と言う変な癖がついてしまったのですが、結構これがイイのです。

体に感謝すると体との絆が深まるばかりか、体が自分のものではないという不思議な「第三者的立場」も得られるのですね。

昨日受けた健康診断で、内診の先生に聴診器を通して「(心臓が)きれいな音ですね!」とおっしゃっていただいたときこの上もない喜びを感じまして、健康体の証明であるのはもちろんのこと、「自分の体との絆を感じる」、まさにこの記事の書き始めである「Love Yourself」の真骨頂的体験ではないかとそんな深い安心感・満足感を体験したのであります。

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間接力。

親愛なるあなたへ

毎年恒例の定期健康診断に行ってきました。

その際「内診」がありますが、毎回思うのは内科の先生方は体を「全く開けない」のに触ったり音を聞いただけでよく分かるな、と。

まるでレントゲンのように目の前に体内の映像が映っているようです。

素人目から見て外科などに比べ地味なイメージのある内科の領域ですけれども、実はその「間接力」こそが最強なのではないか。

直接目で見る、切った貼ったの技術もすごいけれども、見えていないものを間接的に見る想像力というのが人間に備わる潜在能力をフルに生かしている瞬間ではないか。

理屈と言いながらほぼ感性で生きる目で見えない世界が大好きな筆者なので、贔屓目を指し引いてもそういった目で見えない間接力が直接見る世界のさらに向こうの真実をつかむ最強の技術なのではないか、とそう思います。

専門家が感じている「感覚」は見えないけれども、もしもそれを可視化することができたらものすごいものだと。

by You