喜捨の文化がある国。

親愛なるあなたへ

街頭にお坊さん(雲水)が立っていて、お椀にお金をちゃりんと入れてこちらが合掌する、という、お金を入れてるのに「こちらが合掌する」という不思議な「喜捨」というものについて、最初は恥ずかしいかもしれないのですが、やってみるとこれはクセになる麻薬的な魅力を持つ文化であります。

「托鉢」と言う行は、六波羅蜜に出てくる最初の大切な行とのことで、見た目は修行僧が行そのものを行う、そしてそれを通して活動費を賄うというように思われますが、本当はこちらが「喜捨させていただく」という立場にあるものです。

喜捨」は「喜んで捨てる」と書きますが、何を喜んで捨てるのかというと、仏教で言う「執着」であると。

そして、持てる者が持てない者に善いことをさせていただくという「布施行」であると。

お坊さんの行であるのももちろんですが、こちらが分け与える、というお金をちゃりんと入れる側の行という意味合いの方が強いのですね。

それを、山奥のお寺に詣でなくても向こうから来てくださる。

こんなにありがたいことはないと。

雨笠を目深にかぶって、顔を見せない状態で(正式になると、容姿ではなく立ち姿で勝負しなさい、という教えになるとか)微動だにせず立っているものですから、最初はその存在に戸惑うと思うのですけれども、スッと近寄っていって、気持ちのお金を入れて合掌するだけです。

そして会話などは不要。

お金を入れると向こうはお礼は言わず、お経のようなものをゴニョゴニョと唱えます。

それが正しい作法。

お経は、「施財の偈(げ)」というものらしく、

財法二施(ざいほうにせ)
功徳無量(くどくむりょう)
波羅蜜(だんばらみつ)
具足円満(ぐそくえんまん)
乃至法界(ないしほっかい)
平等利益(びょうどうりやく)

「物を施したり教えを施したりすることは、はかり知れない功徳を生む。
そのような尊い行為をする者には、満ち足りた想いが宿るでしょう。
そして施しによって生まれた功徳は、世界をよりよいものへと変化させていく」

という意味だそうです。

(ただ、このような文化に慣れない我々のため、そして喜捨と言う文化が根付かない街中では、わざと顔を見せ、あえてお礼を言う僧もいらっしゃるそうです)

ただ立っているように見えても、向こうは「民衆への教化」というお仕事でお忙しいという意味でも、そして個人対個人を特定したつながりを持つための施しではなく「より広がりを持った施し」の意味を理解するためにも、お経を頂戴したり、数秒の作法を交わした後は速やかに立ち去りましょう。

やってみるとわかるのですが、すごくスッキリするんですね。

恥ずかしさをちょっと乗り越えてやってみると不思議な爽快感を味わえます。

p.s.

街中で立つ以外に、その文化がしっかり根付いている地域であれば、お坊さんが「ほぉーーーっ(法)」と言いながら家々を回る行もあるようです。

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