人は何故リーダーになりたがるのか。

親愛なるあなたへ

人がリーダーになりたがる理由のほぼ大半は「自分の自尊心を満たす」ことが目的です。

過去の偉大なリーダーと言われる人は、その思いが全くなかったとは言えないかもしれませんがまずは貢献がある。

私も記事を書き始めたときにリーダーになりたがった、顔から火が出るような記事も多数あるのですが、リーダーというのはなるべき人がなればいいと思うようになりました。

「リーダーになりたい」は自分を動かすエネルギーとしては絶対必要なものではありますけれども、ある程度勢いがついたならばあとは天の指示を待つ、天命に従うことに尽きると間違いないように思います。

私自身もそれを本当に理解しているのかいないのか、分からないところではありますけれども、できるだけ人前にしゃしゃり出ていくのを毛嫌いするようになった、ということがあります。

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潔い欲。

親愛なるあなたへ

「人間の欲には際限がない」と言いますが、それを本当の意味で理解するのはそれを体験することによってだけかもしれません。

体験していないのに周りにそれを言いふらすのは何かがズレているのかもしれない。

普段は気づきませんが、我々は自分の自尊心を満たすために常にあらゆることをカモフラージュするようになる。

ブランドバックを持っているとか学歴を自慢するとか会社の肩書きを自慢するとか、そういう分かりやすいものは「私は自尊心を満たしたいのです」と大手を振って言っているので非常に潔がよい。

周りからみると嫌かもしれませんが、人間の生き方としては非常に潔い。

ところが、「自分は人間として立派であると思ってもらいたい欲」は周りから見ると立派だけど筆者としては潔さに欠けるのであまり好きではない。

「欲には際限がないから今で満足」というのは、それを体験した人が初めて分かりうるもので、本当にそれを知っている人なら欲を求めている人を否定はしないものだと思います。

相手が上手くいくアドバイスとしてすることはあっても。

筆者は欲の申し子みたいな人間なのでひたすら欲の重要性について述べてきたのですけれども、それでもここのところ「自由という欲」を満たしてきて、さらなる欲を満たすために自分のとった行動が間違っていると反省しなければならない経緯が実にたくさんありまして。

これはいかんなぁと初めてその本当の意味に気づいたところがあります。

難しいのは気づくタイミング。

全てを手に入れてしまってからそれに気づくと没落するかもしれないし、手に入れたのに不幸になってしまうかもしれない。

「人間の欲は際限がない」という言葉で大切なのは気づくタイミング。

早いと周りが不幸になり遅いと自分が不幸になる。

だから小さいことでもいいからまずは自分の欲を満たしていくのが大切だと、それが私の考える「潔い欲」の正体です。

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子供には正しい道を教えない。

親愛なるあなたへ

まずはとにかく自由であることだと思います。

人生の中で様々な経験や歓喜と哀愁を積み重ねることで体で理解する、本当の心で理解することがあると思います。

自分磨きや自己啓発に取り組むときに気をつけたいのが、それは自分がやればまずは十二分である、ということ。

まだ人生をそれほど経験できていない子供さんや学生さんに正しい道を教えてはいけない。

特に自己啓発に熱心な親御さんに散見されるのですが、そういう「正しい道」を押し付けられておかしな状態になってしまった若い人たちを何人も見てきました。

もちろん年齢に関係なく壮絶な経験をして物事が分かってしまっている子供さんや学生さんもいらっしゃるので見極めることは必要かもしれませんが。

私が出会う生徒さんも精神年齢が非常に高く、「すごいなぁ」と当時の自分と比較にならないほどの魂が練られていることに毎回尊敬の思いを持つのですが、そういう人はやはり少ないと思います。

子供は本当に親を見ていますから何も言わずとも態度で学んでいくことでしょう。

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年老いるとき。

親愛なるあなたへ

アントニオ猪木さん引退試合のスピーチより。

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人は歩みを止めたときに、そして挑戦をあきらめたときに年老いていくのだと思います。

この道を行けばどうなるものか。

危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。

踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。

迷わず行けよ。

行けば分かるさ。

ありがとう!
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人は歩みを止めたときに、そして挑戦をあきらめたときに年老いていくのだと思います。

踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。

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魂の勇者。

親愛なるあなたへ

先日、予備校の女子生徒さんから鬱病の相談を受けました。

よく眠れないので薬を飲んでいるということです。

高校生という多感な時期に壮絶な運命と戦ってきたその疲れが出てしまったのでしょう。

とても私なら耐えられないような人生ですが、そんな彼女の強さに心から感服します。

先日は私の体験談からの具体的な薬の飲み方や経験の共有という形で話が終わってしまいましたけれども、次会うときにこういう話をしようと。

鬱や絶望を経験したことがない人に大した人はいない。

鬱は自分の運命の限界に挑戦した人だけが経験できるもの。

男性ならカッコよく、女性なら美しい。

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私が自由を論ずる理由。

親愛なるあなたへ

自由を論ずる、と言うとさぞかし立派なことのように思えるのですが、筆者としては半分「自分への防御策」として捉えている面があるのかもしれません。

今まで様々な記事を書いてきて、その中で「それを認めるの?」という内容もあったと思います。

たとえば「親が死んでスッキリした」「法律の力で親を社会的に抹消した」など、嘘偽りない心情や過去を吐露される場面に出会うこともありましたが、一般的には「何でそんなこと思うの?」「何でそんなことするの?」という反応になってしまうかと思うのですが、その人の心を形成した人生はおよそ他人が窺い知ることはできないもの。

ですから、もしそれが自分だったら、自分がその立場に置かれたときに同じ批判ができるだろうかと考えるときにどうもその気合いが入らないのです。

そういうことから、私も様々な批判を記事で展開してきたこともありますが、それは「自分が同じ立場に置かれても同じことを言う」という安心感みたいなものがあります。

残忍な殺人犯の心情をくみ取るわけでもなく、犯罪を認めるわけでも決してありませんが、自分が経験しなかった心情に出会ったとき、それをよく知る前に全面否定するのは、神様に「じゃああなたも体験してみる?」と言われているようで怖いのであります。

来世や生まれ変わりというのがあるのかないのか、それは人それぞれでここでの議論の題材ではないとは思うのですが、それでももし自分が経験したら、というある種の「正しい畏れ」がそういう視野の広さを持たせてくれるのではと。

ここに私が心の自由を論ずる一つの理由があります。

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