愛情とは行動力である。

親愛なるあなたへ

私は個人的には、愛は行動力である、と常々思っています。

ですから、どんなに口で愛情を唱えても行動力のない人の愛を私は信用しません。

反対に口で何と言おうが、その人のことを思って本気で行動する人には愛情を感じます。

行動するには覚悟がいります。

愛とは覚悟であるという内容の記事も書きましたが、結局のところ自分が立派だと思われたい愛情論には覚悟もないし行動もない。

極端な例を出せば、水を飲ませて毒を出さないと死んでしまう人を見たときに、すぐ隣に川の水があるのに「ミネラルウォーターを買ってきますから」というケース。

要は汚い水を飲ませて自分が責められないための保険として「飲ませたのはミネラルウォーターでしたから」という言い逃れを作っておく。

その人を救いたいという思いからではない。

深く突き詰めていくと本物の愛を表現するのは非常に難しいことだと分かります。

by You

最後から考えてみる。

親愛なるあなたへ

生と死は表裏一体である、とはよく言ったものです。

自分の生き方は死に方に、そして、死に方は生き方に通ずる。

ということは、どう生きるか分からないとき、逆にどう死にたいかを考えると考えやすくなるのではないかと。

生きるのは毎日生きていますからよく分からないけれども、死ぬというのはその現実が訪れるまで「非・現実的な」世界ですから考えも膨らみやすいのではないかと思うのです。

by You

幸せの押し売り。

親愛なるあなたへ

幸せの押し売りに注意したいものです。

筆者も記事に書いているように幸せになるのは素晴らしいことなのですが、その幸せを「売る」ことでより自分の幸せを得ようとする人がいることも確かです。

幸せを「おすそわけ」するのではなくて。

全員がそうだとは思いませんけれども、傾向として子供の写真やなんかを年賀状に載せる人は多いと思うのです。

幸せな家族写真を載せて「幸せにしています」と。

もちろん結構なことだと思うのですが、以前の子供自慢をする親たち、というような内容の記事で、結局家族や子供というものを自尊心を満たすための道具として使っているケースがよくあることのように思えるのです。

それを「愛情」という言葉でひとくくりにしてしまうので実体が見えにくくなってくる。

インスタグラムやフェイスブックなどでも同じだと思うのですけれども、幸せを公表するときそれが押し売りになっていないかどうかを考える必要がありそうです。

その指標として、自分の家族の幸せを他の家族の幸せと比べていないだろうか、ということ。

つまり、変な話、自分たちよりも学歴や経済、社会的地位、そして身体的満足感などが一般的に「優れている」という知人から同じような幸せを送られてきたときに自分はどう思うだろうか、と。

by You

嫌う相手。

親愛なるあなたへ

もし人に嫌われて悶々とするのであれば、何故嫌われてしまったのかよりも、嫌われた相手がどういう人間かを考えた方がいいでしょう。

もちろん何故嫌われたのかを分析するのは、例えば営業だったり商売だったり、ビジネスに直結するものであれば対応の仕方があるとは思うのですが、それが自分らしさを崩すものであればいちいち気にすることはないと思います。

それよりも、自分を嫌う人間とはどういう人間なのか。

この効用は素晴らしいもので、自分を嫌う人間がどういう人間かを見定めようとすると、逆に自分はいったいどういう人間なのか、ということを考えようとすることにあります。

他者を分析するようで、まずは自分を分析しないとそれができるようにはならない。

そうして本当の自分の心の声がきけるようになれば、あとはそれに従って自分を嫌う人間を判断していけばいい。

すると、自分を嫌ってもらわないと、その人たちから自分が嫌われないと本当の自分らしい幸せが手に入らないことが分かるようになります。

嫌われる相手のパターンというのは似ているものです。

その数が多いと、特に日本人は自分の価値観を疑い出して周りに迎合してしまう傾向がありますが理屈家の筆者から言わせてもらえば少しおかしな話です。

自分を嫌う人間はどういう人間か。

それを徹底的に観察していきましょう。

by You

祈りをささげる人。

親愛なるあなたへ

世界の中でも日本はとりわけ「宗教」というものを排除した日常を営んでいるように思います。

世界では特定の宗教や、そうでなくとも「自分なりの宇宙や神」というものを設定してそれに正対する、という姿勢を貫いている人が多いように思います。

おかしな新興宗教もあるとは思いますが、それでも「祈り」というのが人生の羅針盤を正常に保つ一つのエッセンスであるような気がしてならないのです。

逆に「まともな宗教心」というものがないから変な新興宗教にひっかかったり、また、まともな宗教でもその意味を取り違えたりしてしまうのではないでしょうか。

筆者はもともと目に見えないものに興味があったのは確かですが、それでも理系環境で育ってきた結果それに正対するという覚悟まではありませんでしたから、そこにも日本という国がなんとなく方向性を決めかねている現実があるのではないかと。

しかし一度そういうものを自覚し、生活の一部に取り入れるようになればおおよそ人生の間違いというのはなくなるように思うのです。

目に見えないものに正対し、祈りをささげる人に人生を見誤る人はいない、と。

by You

健全な家族。

親愛なるあなたへ

健全な家族姿とはどういうものでしょうか。

私は一つの反発心が常にその健全さを支えていると思います。

何の反発もなく和やかに進む家庭もあるとは思いますが、それにも色々なズレは生じるもの。

一度親に反発しないと、親と同じ運命をたどることになる、というのは理論上そうおかしな話ではないのでしょう。

もちろん無理にケンカしろとは言いませんけれども、自分の育ってきた家庭環境というのは所詮狭いもの。

人間の心は長くいると何でも信じてしまうようにできていますから、自分の今までを振り返ってみて「何かおかしいな」と思うことがあれば、その価値観を一度否定しないと、自分でも嫌がっていたことを知らないうちに次の世代にしてしまうということなのです。

「歴史は繰り返す」というのは運命に翻弄されているのではなく、反発する、という我々の決断次第である、と。

by You

美しい孤独に至る過程で。

親愛なるあなたへ

孤独な人が美しい理由は、自分で判断していける人、だからだと思うのです。

逆を言えば、美しくない孤独は、自分が孤独であることをアピールしようとする場合。

自分で判断し、自分で責任を取るものではないから、どうしても孤独をアピールして周りからその孤独を認めてもらうことが価値観になってしまう。

本当の孤独を知る人は、周りに孤独であることを憐れまれても別に構いません。

本当の孤独を体得するには先ほどの「孤独を認めてほしい」道を通ることもあるとは思います。

ただ、そのときにも自分で判断することを忘れないようにしたいものです。

by You