親愛なるあなたへ
今から、今日あった出来事を書きます。
内容は、「許す」、ということ。
許しについては何度か書いてきたのですけど、もっと具体的にこうすれば、こう説明すればいいのか、ということがありました。
僕の話も混じるのでちょっと退屈かもしれないですけど、それでも流れとして必要なので聞いていただけるとありがたく思います。
正直言うと、人生変えてから僕自身はずっと戦ってきたのです。
立派なこと言ってるけど、ひたすら戦って戦って。
エネルギーをしこたま使ってきました。
そんな中で今日、許すということが。
未熟でお恥ずかしい話なのですけど。
どうして戦ってきたのかというと、実はもともと許すのはすごく得意な分野なのです。
昔は本当に「いい人」で、「人間できすぎてる」「優しすぎる」「心が広すぎる」って言われるのがすごく嫌でした。
個性を否定されているような気がしたのですね。
だから戦ってきた。
そんな中での出来事。
嫌な人やひどい人っているのです。
でも、「この人が自分の子供だったらどうだろう」って。
そしたらいじめられようが無視されようが、「いいよいいよ」って。
スーッと相手の中に入っていって、自分がもしこの人の親だったら・・・。
そしたら、ファッと許せたのです。
そうか、「いい人」だったときにしていたのはそういうことなのか。
感覚と理解の統合。
その人には必ず親がいます。
自分より年上の人でも必ず親がいます。
もし自分がその人の親だったらどうだろう。
本当に子どもを愛している親ならひどいことしても許せる。
嘘をつこうが悪いことしようが全てを許せる。
ああ、自分より大切なものって、こういうことなのかな。
帰りの電車の中、色んな人を見渡したとき「もし自分がこの人の親だったら・・・」「この人がもし自分の子供だったら・・・」
そういう目で見ると全てが変わってくる。
自分主体だと不幸そうな顔を見ると波動をもろに食らうけど、許しが前にあるとその波動が自分の体を通り抜けていくだけ。
波動を直に受けたのは自分の我だったな、と反省。
そんなのありえないですよシリーズの中に、経験しなくても「何故か分かってしまうこと」というのがあります。
衝撃的な体験でした。
相手が自分の大切な我が子だと思うと許すことができる。
人を許せると楽だよ。
許すって立派なんじゃなくて、自分が楽になるためなんですよ。
もちろん、許せないことってあるのです。
いくらこちらが心を広げても、無理な相手っているのです。
この世には本当にキチガイみたいな人間っているからね。
暴力振るうとか怒鳴るとかは分かりやすいけど、一見正しそうなキチガイもいるからね。
そういう人とは戦うか、あまりに気が狂ってるなら逃げる。
それから、自分の実力がついて、「気」が充実してないと許すことってできないのです。
「実力」と「気」ってすごく大切だから。
これはよく覚えておいてください。
実力も気も少ない状態で相手を許すと必ずナメられるよ。
人はナメられてはいけないのです。
ナメられるのは愛じゃない。
愛っていうのは上からフワーッと覆いかぶさるようなもの。
小さなろうそく立ててもフッと消されてしまう。
相手を暖かくしようと思ってもろうそくだと足りないですよね。
だから最初は自分をガンガン燃やす。
マキくべて灯油ぶちまけて熱過ぎて人が逃げるくらいに。
燃やして燃やして、大きくなった自分の気で、部屋全体をフワーっと暖めるんですよ。
いい人が最初から許せるなんて、ないのです。
人間は戦って戦って、それを越えてはじめて許しの境地を得る。
もちろん生まれながらに我がなく、相手を変えてしまうくらい本当に優しい人もいるけど、残念なことに今の世の中の優しい人はナメられてしまうのです。
その人がいけないのではなく、ナメてかかる方が間違っている。
でも、その世の中を渡って行かないといけないからね。
だからいい人は、不届不埒に、戦って戦っていいのですよ。
人には大切なものが二つある。
心にいつも刃と許しを。
言葉で殺す気でいくぞ、逆にこちらが死んでもいいぞ、と覚悟を決める。
そんな中、「この人が愛する我が子だったら」と思う。
覚悟の刃が自信を生み、その自信が許しをもたらす。
僕の中の神様は、そう教えてくれました。
by You