出身地のアイデンティティ。

親愛なるあなたへ

前述の記事に関して、なら「お前はどうなのだ」と言われると、私は自分の故郷を愛していますが、やはりそこは合理主義者と言いますか、名前が変わると多少の寂しさは否めないと思うのですけれども、それでも「昔はここはこういう地名だったんだよ」と逆に「望郷の念を100倍くらいに増幅して相手に押し付ける」という作業に出るように思うのです。

結局、人がそこまで自らの出身地あるいはその土地名にこだわるのは、人間としてのアイデンティティを確立するという部分に綿密に通じています。

私がすごいなと思う人は、色んな土地をフラフラしていて「自分がどこ出身なんだかよく分かんない」「何人なんだかよく分かんない」と飄々として言える方、それがお世話になっている予備校の先生の中にもいらっしゃるのですが、こういう方が出身地という背景を持たずとも自らのアイデンティティを確立されているすごい方だと思うのです。

自由であること、フラフラしていること、「どこにも所属していない」ということが自らのアイデンティティであると。

全員がそういう観念を持つべきだという主張ではなく、そういうアプローチもあるのだとすれば、たとえば今回のような住民投票でもすんなりと本質が見えてくるのではなかろうかと。

では、そういった出身地のアイデンティティからいかに自由になるのか。

その処方箋を私は、「旅」だと思うのです。

旅が人を成長させるというのは、何かの背景にとらわれないという強さというかしなやかさというか、そこまでカッコのいいものではないのですけれども、一つ正解のように思うわけです。

by You