執着と関心。

親愛なるあなたへ

執着と関心。

どっちも似ているから見分けるのが難しいのである。

この前、和歌山へ旅行に行ってきたのですけど、そこで温泉に入るときにこんなことを思いました。

今、私の体中にはプツプツができてます。

もし前の自分だったら「こんな体を見られて恥ずかしい」と思う。

ところがこの前は「他の人が気持ちよく入っている気分を害するのは申し訳ないな」と思う。

そのときに、「ああそういうことか」と思いました。

以前の私も多分「気分を害するのは申し訳ない」と思うだろうけど、それは相手のことを考えているのではなくて、自分が恥ずかしいための言い訳で使っていると思います。

違いは、自分への批判。

自分への批判があったとき、それでも相手のことを考えられるか。

何故なら自分がどう見られていようが関係ないから。

それが執着と関心の決定的な違いなのだと思います。

自分が温泉に入ったら離れる人がいても「申し訳ないな、気持ちいいところなのに」と考えられるか。

「相手の気分を害さないように陰でそっとしてよう」「また違う時間に来てくださいね」と思えるか。

執着の人も同じように思うけど、それは「自分がどう見られているか」が根底にあるのです。

自分に執着があると、必ず「どう見られるか」が先に来る。

そうではない。

自分がどう見られているかはどうでもいい。

何故なら相手に関心があるから。

自由になってみてよく分かりました。

by You