帰納法と統計学に何故希望を見ないのですか。

親愛なるあなたへ

人の心理は面白いものです。

自らの可能性を見出したい心にも安定を求める声が聞こえる。

安定の中に可能性はありませんから、可能性を求めるなら必然的に安定を崩すことになります。

現代の理論は大まかに「帰納法」と「演繹法」に分かれています。

以前も触れましたが、簡単に言えば帰納法は「事例をいっぱい集めれば証明できる統計学」で、演繹法は「前提さえ間違えなければ完全無欠の究極理論」とも言えます。

なので、帰納法には穴があり(一つでも違う事例があれば崩れ去る、つまり崩しやすい)、そして演繹法は前提が間違っていなければ穴がない(前提を覆すのはほぼ不可能で、もし前提が間違っていれば確立した理論として流布し我々の耳に届く前に淘汰されます)。

人は演繹法を希求する。

それは間違いなく安心を求める声からですね。

でもそこには完全無欠の理論が存在するから、そのようにやれば必ずそうなる、という結果が待っています。

未来が分かるのですね。

未来が分かるけれどもそこに可能性はありません。

片や、帰納法統計学

「多くの人がこうなっています」。

でもそれに対する「反例」が、「割合としては少なく」とも「絶対数としては一つの街ができるほど存在」する。

私は化学を扱う唯物論者でありますが、天と運命と魂と、それらが秘める可能性を追求する唯心論者でもあります。

この矛盾する二つの信念を二つの証明法の中に見る。

帰納法統計学に何故希望を見ないのですか。

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