「運命の構造」を体感する。

親愛なるあなたへ

記事を書き始めた頃から「運命とは無限に枝分かれした設計図だ」と書いています。

運命はその無限に枝分かれした設計図の行く道行く道の「大枠」を示しているのであって、「一本の道」なのではない。

どうすればそれが分かるかと言うと、やっぱり探す、色々やってみるしかない。

運命を一本の道で考えるから被害者のような感覚にもなる。

何も探さないと「もしかしたら他にもあるのでは」という感覚が捨て切れない。

頭の中では「無限の枝分かれだ」とどこかで知っているのです。

探して探して、もうどうしようもなくなって行きついたその先に「ああ、これだったのか」と納得する。

「大枠」はやっぱりこうだったのだなぁと。

もちろん探さなくても自然に運命の道に乗る人も私は人生で数人見てきましたけれど、それは本当に僥倖な人。

それはそれでその人が神様と決めてきた大枠、運命なのであって、人情としては分かりますけれども「うらやましい」とかそういう話ではないのです。

だから、我々は「探す」。

「これは運命だ」と呼ばれるものは世間的に流布する悲観的な諦めなのではなく「もっと積極的な諦め」なのです。

何故ならそこには非常に心満たされる幸せな感覚と納得があるからです。

探せば、必ずや自らの運命を受け入れられる。

もちろんとんでもない強い魂が非常に困難な試練を選び、まさに今直面しようとしているときにこの話は決して「適切ではない」のですけれども、通常、何もなく過ごしている我々の中では、間違いなくこの「模索する」というのが運命の構造を体感する最も正解に近い答えだと思います。

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