自分を信じると、社会の常識も客観的に見ることができます。

親愛なるあなたへ

最近、「これはおかしいんじゃないだろうか」「それは間違っているんじゃないだろうか」と考えたことがありますか。

「みんながやっているから」「上司にやれと言われたから」「親がいいと言っているから」、これらのどれかに当てはまっていませんか。

言い訳の最終兵器は、「前例がないから」です。

でも、「前例がない」というのは、幻なのです。

前例が1つあるにも関わらず、「あの人は変わっているから」「世の中の動きはそうではないから」と、何が何でも責任転嫁しようとする人も大勢います。

人間は、特に日本人は、目の前にないものを信じるのが苦手です。

大人になればなるほど、そういう傾向が強くなります。

常識として確立されていないことには、何か恐ろしい力が秘められていそうで、近寄ることができないのです。

「前例がない」と言って新しいアイディアを否定するのは、現実を見据えているのではなく、目に見ることはできない大きな力を、意識下で恐れているのです。

僕は学生の頃、社会人になって少なくとも3年経てば、世の中の汚いことも平気で飲むような体質に染まってしまうと思っていました。

世の中の風にあたりながら、上司や周りの大人たちに「それは違うと思います」と意見を言っても、「そのうち分かるよ」と諭されていたので、そんなもんかな、と思っていました。

けれども、おかしいと感じることには、常に疑問を投げかけ続けました。

すると、常識的に流れている「濁」を平気で飲むようにはなりませんでした。

社会人になって、3年と6ヶ月が経っていました。

僕の心は、今でも新入社員のときと変わりません。

「前例」では、社会人は「濁」を飲んで育つと諭されてきましたが、僕はそうなりませんでした。

僕は、当たり前と言われている「濁」を、一度飲んで、吐き出すことができるようになりました。

「濁」を飲むときは、「これは濁だ」と認識した上で飲まなければなりません。

「清濁併せ飲む」のは、その後に続く、「濁を吐き出す」作業によって、初めてその意味を持つのです。

「濁」を吐き出した後に残る「清」は、より深いものとなります。

これからもたくさんの「濁」を飲んで、そして吐き出し、コバルトブルーのような神秘的な光を放つように、「清」を磨いていきたいと思います。

by You