使う前に与えられる謎。

親愛なるあなたへ

今からちょっと不思議で、ちょっとだけ難しい話をします。

でも是非聞いててくださいね。

人間はどうやって考え事をするのか。

それは脳の中を電気が走っているからだと言います。

電気化学的反応がそれを支えているという。

リガンドがレセプターと結合して生ずるチャネル開閉によるイオン濃度勾配、またはリン酸化されてコンフォメーション変化を起こしたATPアーゼが能動輸送によって神経細胞が分極・脱分極を繰り返すことにより電気的な流れが発生し、その多様な組み合わせによって考えるという現象が起こる。

科学ではそんな立派なことになっているようです。

でもよく考えてみると不思議なことに気がつきます。

もし、脳が電気化学的反応によって考え事をするのであれば、どうして脳は自分のことを電気化学的反応によるものであると認識できるのか。

科学者に言わせれば、電気化学的反応による電気の組み合わせで、それが電気化学的反応であるという結果を導いているだけ、となります。

でもそれではおかしいのです。

簡単に言うと、例えばロボットが人間のプログラムによって動いているとします。

そのロボットが「自分はプログラムで動いている」と認識したとします。

すると、このロボットの存在はどうなるでしょう?

今、ロボットは「自分はプログラムで動いている」と認識したとすると、その自己プログラムを書き換える可能性が出てきます。

これは自由選択における原則では当然のことです。

その瞬間、ロボットはいわゆる「意思」を持つことになる。

人間が与えたプログラムによって意思が生まれた。

そういうことになります。

ところが、人間にはこの理屈が当てはまりません。

ロボットは「自分はプログラムで動いていると分かること」で意思を持った。

でも人間は自分が電気化学的反応で考えていると知る遥か昔から意思を持っているです。

これはいったいどうしたことでしょう。

原理の前にそのものがある。

そう考えなければならなくなってしまう。

もう一つ例を出してみましょう。

例えば数字と理論。

数字と理論がないと今の世の中は成り立ちません。

そのくらい大切なものの一つであることは間違いない。

ところが、この数字と理論はそれが必要になるずっと前に我々に与えられていた。

原始時代にマンモスを追っていた時代から与えられていた。

科学の世界ではゼロになにをかけてもゼロですから、「素」がないと才能が開花することはない。

そういうことになります。

つまり、人間の「意思」も「才能」もはじめから存在していた。

物質を超えたところに存在していた。

そういうことになるのです。

脳が電気化学的反応で動いているというのは本当だと思うのです。

一億歩ゆずって思考が電気化学的反応によって生まれたとしましょう。

そしたら、その仕組みをいったい誰が与えたのか。

ロボットが人間の手によってプログラムを与えられるように、何か外から人間に電気化学的反応を与えるような存在がないといけないことになってしまう。

科学は神様を認めるのですか?

そういうことになってしまいます。

この世のもっとも不思議なところは使う前に与えられていること。

これが不思議で、面白くて、そして何故か心地いいので、そういう考え方をやめることができないのです。

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