強い者と弱い者。

親愛なるあなたへ

私は強い者には力を使うけど、弱い者には力は使わないよう気をつけているつもりです。

ただ、私の強者と弱者は普通の人とちょっと違う角度から見ているかもしれません。

普通弱者、と言われる人が強者であったり、強者に見える人が弱者だったり。

時代によっても変わります。

状況によっても変わります。

例えば、分かりやすく私が教えている塾の話をしましょう。

塾的に、またその会社的にOKかNGかは別にして。

たとえば生徒さんは子供ですから「弱者」かもしれません。

ところが問題のある生徒さんもいる。

すると、塾側にとっては「お客さん」ですから邪険にもできない。

すると急に弱者が「強者」に変貌します。

学生であるうちは「先生の好き嫌い」というのも激しいでしょうから、そういう状況も合わせるとより複雑になります。

だからそういう場合は私は力を使います。

問題があって積極的にこちらを困らせるような行動や態度なら、その会社の対応がどうあれ、私は「関わらない」という手段に出ます。

相手が「子供なのに」と思うかもしれませんが、前回も書いたようなビジネスにおけるお客の選定、という観点からは「迷惑は排除」ということになるのです。

学校についても同じことが言えるかもしれません。

昔は学校主導で、先生が「おい、お前ら」などとどんなにひどいことをしていてもまかり通っていました。

だから生徒は「弱者」だったのかもしれません。

「弱者に力を使わない」のが筋なのです。

ところが今は学生主導ですから、学校側もヘタなことするとすぐ「体罰」「暴力」と訴えられたりメディアで叩かれるから、モンスターペアレントがやりたい放題の時代になりました。

私の親戚に校長先生をされている方がいますが大変苦労なさったようです。

場所や環境にもよるでしょうが、今の時代は先生が「弱者」になるのかもしれません。

障害、という言葉は嫌いなのですが、障害を持っておられる方にも見られることです。

そういう方は社会的に弱者かもしれないから、手伝えることを手伝います。

ところが、そのことを鼻にかけて人に迷惑をかけたり、やりたい放題だったり、それを咎めようとすると急に被害者を装ったりと、世間から見ても当事者にならないと非常に分かりにくい「強者」も存在します。

だから十把一絡げに「こういう人が強者だ、弱者だ」と種類で分別しない方がいいのではと思うのですね。

見抜く目を持つ。

強い者に力を使う、というのは人間としての正しさが通じないときの「矯正方法」。

逆に、強い者を見抜けるようになれば弱者には自然に優しくなれるような気がします。

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