人間関係のステータスシンボルと自由人の仲間の範囲。

親愛なるあなたへ

お正月とか、クリスマスとか。

こういう日は「誰かと一緒にいなきゃいけない」みたいな概念とよくよく対峙してみる良い機会なのではと、そんな風に感じます。

家族でもカップルでも、周りで楽しそうで幸せそうでいいなぁ、と感じるその心に。

そのほとんどの気持ちが「本物」だと思いますのでその気持ちを大切にしながらも「ステータス化していないか」どうかだけこの機会にチェック。

「誰かと過ごすことが幸せのステータスシンボルだ」というトラップにかかっていないかだけチェック。

道徳的にではなくて自分らしさ、自分らしい本当の幸せのためにですね。

こんなこと言うのは自由人の中でも本当に一人でいるのが好きなタイプで、おそらく大多数の方には賛同いただけない感覚かと思うのですが、個人的には一人が好きだけれども人里離れた孤独は苦手でだからこそ都市部大好き人間なのでありますが、その代わり都市部にさえいればお正月やクリスマスのときにいくら街をフラフラしても寂しくなく、「幸せそうな家族」や「幸せそうなカップル」「楽しそうな友達グループ」を見ているのが顔がニヤけてしまうほど至上の幸せだというちょっと変わった人種なのであります。

これをお世話になっている予備校の知り合いの先生に話してみましたが、その先生も相当な自由人なのですが全く分かってもらえませんでした・・・。

よく「孤独は都会の中にある」ということが言われますがそれがほぼ当てはまらない例外の一つでもありますね。

「孤独は都会の中にある」という言葉が、本来の意味は「現代のお互いの無関心が都市部を通して全面に現れる」という意味なのかもしれませんが、もう一つその言葉自体に一人というものをスケープゴートにした「人間関係のステータス化」という要素を含んでいないだろうかという吟味も必要のような気がします。

何故ならここに変な例外がいるからですね(笑)

一人で寂しくない理由はいつかも記事にした「自分自身が『背景』・『その景色の一部』になるから」だと思いますが、もう少し噛み砕いて表現すれば「仲間の範囲が広い」ということかもしれません。

自由人にとっては自由が幸福の元で、そうすれば赤の他人だろうと「幸せそうな家族」も仲間、「幸せそうなカップル」も仲間、「楽しそうな友達グループ」も仲間。

「孤独を好む」のではなくて、実は「仲間の範囲が広い」から寂しくなく自由を謳歌できるのだと思います。

実際に知り合いか友達かとかではなくて「仲間の範囲が広い」。

たとえば「一人で寂しいと思っている人」の場合は「幸せそうなカップル」は「敵」なのですね(笑)

そういうタイプの方は自分もパートナーを見つければ周りが仲間になります。

ただ自分もパートナーに恵まれているのに向こうのカップルはもっと素敵ね・・・と「敵」になってしまった場合、人といる、誰といるということ自体へのステータスシンボルの有無をチェックしないと、なかなか自分らしい、ということはどうしても難しくなってしまうでしょう。

なので、人と触れ合う・一緒の時を過ごす幸福に加え、「仲間の範囲」をときどきチェックしながら「ステータスシンボルにハマらないようにする」とさらに香り立つ素晴らしい時間になるのではと、そんな風に思ったのでありますね。

by You