生きてきた証。

親愛なるあなたへ

記事を十数年書いてきてつい昨日分かったことがあります。

それが「お子さんを持ちたいと思う女性の気持ち」。

何か「自分の生きてきた証」を残さないと自らの人生に意味を見出せない、とはこういうことなのかなと。

一般的に男性は仕事に打ち込む傾向が強く、その場で何かが残らなくても「達成感」を得やすいものなのですが、それでも夢として「歴史に名を残したい」とよく言われるのはそういう一面もあるのかなと思うのですね。

「名誉欲」と題されますが、本当は「自分の生きてきた証を残したい」。

何か形として残しておかないと、どうも自分の人生に意義を見出せない、人間にはそういう部分もあるのではと思いました。

すごく出世して経済的にも豊かになり肩書も十分なのに、「結局オレってなんだったの?」「私の人生何だったの?」という疑問を老年、そして死ぬ間際になって問うことが話題にあがるのは「形が残っていないケース」が多いのでありましょう。

「振り返り」という意味もあるかもしれません。

人生を「魂の修行や成長」とよく表現しますけれども、それをビジュアル的に確認するプログラムを神様が書き込んだのかもしれません。

もちろん目に見える状態でなくても「自分の足跡」が分かる場合もあると思います。

しかし、逆に言えばもし目に見える状態で保存できたならば、どんなにささやかなものでも非常に充実した人生を感じる。

ブログを開設したときもこの記事がどのように役に立つのか分からないという趣旨を書いた気がしますが、まさかそれがこういう形で訪れるとは思いませんでした。

せっかくの人生、ささやかでも何か目に見える形に残しておくといいかもしれませんね。

たとえば小生の場合は記事を書く以外に、現在の本職として予備校で化学を教えていますがそのオリジナル資料をひたすら溜め込んだり、あとは旅行好きなので行った先々の写真をまとめてあったり、それから15~6回というなかなかない転職回数の証明として全ての給与明細を時系列で並べてあったり・・・

細かいところでは初めて社会に出たメーカー時代の3年の源泉徴収票以外に、フリーターになってからの確定申告書、そして独立してからの決算書一式、そういうものも全て法的な保存期間云々とは別でデータとしてとってあります。

ときどきそういうのを見返すと「こうして生きてきたんだなぁ」と、まだまだこれから!の世代でありますけれども妙な感慨深さを感じるときがありますね。

そこに「自分の分身」ともいえる像を見出せる。

もちろん「その証」がお子さんや配偶者などの「対・人」の場合は、その相手に依存したり自分の存在意義を押し付けたり、はたまた世間に対する自らのステータス主張の道具として位置付けてしまっては本末転倒なのですけれども(よくモラルハラスメントの問題で引き合いに出されます)、純粋に大きな愛情としての証なのであればお子さんを持ちたいそのお気持ちが心底分かったと、そういう一日でありました。

小さいことで構いません。

何か形を残してみる。

すると必然的に「継続する」という作業が入ってきますから「継続は力なり」とはそういった意味を含んでいる言葉かもしれません。

何か小さな好きなことで、是非形を残してみませんか。

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