親愛なるあなたへ
何かを学んだら人に教える。
知っているのに教えないのは意地悪だ。
教えたって減るもんじゃないしね。
相手が助かって自分が爽やかな気持ちになれたらいいことずくめじゃないですか。
知恵は配り歩く。
それが基本です。
今日はそれよりちょっとだけ上のお話。
教え合う中、どうも違うなと思うときがあります。
熱心に教えてあげる人は、どうやったら相手が助かるだろうかと一生懸命考える。
とにかく相手が苦しむのを見るのが辛いのです。
他人の痛みが分かる心優しい人。
「こう言っても、頭ぶつけて痛い思いをするんじゃないか」
それが分かってしまう。
本当に相手のことを考える人って、自分がマスターすると自分を後においてまで全力で人に尽くそうとするのです。
でも、それが裏目に出てしまうこともありますよね。
そういうときは、「自分が分かっていればそれでいい」、そう考えてほしいのです。
冷たいことではありません。
相手に興味を持たないのは冷たいけど、相手と自分が苦しくなるまでやらなくていいということです。
この記事もそうです。
僕自身は内容や感覚が手に取るように分かるのですけど、読んでくださる方には上手く伝わらないかもしれない。
間違ったやり方で頭をぶつけてしまうかもしれない。
そういう思いはあります。
辛いですけど、それはそれでいいと割り切る。
頭をぶつけたとしても必ず本人の学びになると確信するから、その嫌な思いも乗り越えられる。
人にはそれぞれペースがありますから。
仏教って色んな考え方があるのですね。
自らが悟りを開く、自分自身を高めて開眼するという考え方が最初に根付いた。
その後、自らが悟ったなら他の人も悟りの境地へ導いていこうという考え方が出てきました。
それが大乗仏教です。
大乗仏教の人が、自分だけの悟りを考える人たちを「小乗」と呼んだのですね。
自分だけが悟るとは器が小さいな、と。
ところが、この大乗仏教があまりにも一生懸命人を救い出すとちょっと困ったことが起きる。
頼まれてもない人まで救い出したのです。
救われているはずなのに苦しい。
これは、何かがおかしいですよね。
人を救うという大義名分のために、他人のことを自分の中に取り込みすぎた。
以前書いた「課題の分離ができていない」のですね。
お釈迦様の頃は小乗とか大乗とかの区別がありませんでした。
お釈迦様は「自分が悟ればそれでいい」、そういう立場の人です。
手取り足取りではなかった。
自分自身が悟ればそれでいいのではないですか。
頼まれたときに頼まれた分だけ手を差し伸べてあげれば。
非常に誤解されやすい書き方かもしれないけど、とても大切なことだと、僕は思います。
by You