あげられるんだったらあげれば、という話ですね。

親愛なるあなたへ

本日献血に行ってまいりました。

我ながら献身的だ、素晴らしい。

山のように積まれたジュースの箱を認識した後に献血車の存在を確認する。

受付の人から満面の笑みでなっちゃんオレンジを奪い取るとペットボトル2本分を一気飲み。

暑かったしね。

灼熱地獄で献血者が現れない中の希望の来訪、よほどホッとしたのでしょう、受付の人が少し青ざめて見えました。

久々の採血となれば緊張そのもの。

ただ、30過ぎた大の大人が「怖いよ〜」などと言ってられません。

「ちょっとチクッとしますよ」なんて言われても「そんなの平気だもん」などと、「一人でできるもん」のノリで先ほど図書館で借りてきた本を読みつつ、しかし針は見ないという高度な技で乗り切ってみせた。

待ってる間、ふと不思議に思ったので担当者の人に聞いてみたのです。

「血液ってどのくらいで回復するのですか?」

その人によると400ml採血の場合はだいたい1ヶ月で元に戻るそう。

その話を聞いてますます不思議になったのですね。

なくなっても元に戻る。

しかも作られ過ぎることがない。

フル稼働で鼻血出っぱの人とかいない。

不思議ですねぇ。

これだったらいくらあげてもいいな。

ただ、血液には保存期間があるそうで、あんまり取り過ぎても捨てることになって倫理的に問題になるからバランスが難しいんですっておっしゃっていました。

それを聞いて思わず持論を展開したくなる。

これまた世間一般とは違う内容なので、おかしな話だなと思って聞いてくださいね。

僕自身は、あげられるものならあげた方がいいと思っているのです。

例えば、今回の血液も捨てると倫理的に問題になるって言うけど、だって回復するんですよ。

回復するんだったら別にいいよねって。

それより、血液を必要とする人がいなかったんだからよかったじゃないですかって。

捨てたって無駄になるわけじゃなくて、保険みたいなものですね。

心臓とか肝臓とか、一個しかないものをあげるのは別かもしれないけど、無限に出てくるものだったらあげればいいんだよねって。

もちろん、全く無駄に血液集めろって言ってるんじゃないんですよ。

あげられるものならあげた方がいいんだよねって。

それからこれも過激な話かもしれませんけど、僕自身は僕が死んだり脳死になったらどこの臓器でも好きに使ってくださいって立場の人間なんです。

だって死んだら使えないもんね。

体のすべては神様からもらったものなんですよ。

それを人に使われたくないどうのこうのっていうのは執着が強いのかもわからない。

もちろんね、ドナーとレシピエントの関係とか免疫学の観点から色々難しいと思うのです。

臓器移植って簡単に言うけど、程度の差こそあれ実際はレシピエントにすごい負担がかかるらしいのです。

肉体的にも精神的にも。

免疫抑制剤も飲まなきゃいけないし、もしそのもらった臓器を無駄にしたらそれこそ心理的に耐えられなくなる。

何より、自分の命が他の犠牲によって成り立っているような「罪悪感」。

でも、これもドナーとレシピエントの間で「何かすごいものをあげた」「すごいものをもらった」という概念がそうさせているのではないか。

もちろんすごいものです。

生きてる人からもらうなんてのはもっとすごいこと。

生きてる人から移植を受けるのはここでの話題の対象外にさせていただければ。

ただ、死んだ人間のものをずっとグチグチ言ってるのは、それは執着ではないだろうか。

こういうこと言うと「臓器売買を肯定するのか」って人が出てきそうなんで書きますけど、そうではなくて、一つの考え方ということです。

家族の人の気持ちももちろんあります。

人間自分の体ならいいけど、家族のものとなるとそうもいかないという。

それは人間の心理だと思います。

じゃあお前はどうなのかと言われた場合、僕は本人の希望を尊重します。

あげたいと言ってればあげるし、あげたくないと言ってればあげない。

神と本人が直結しているところに他人が、それがたとえ家族であっても、介入することではないと考えているから。

臓器売買を肯定しているのでもなく、また家族の人の気持ちをないがしろにしているわけでもない。

ただ総じて思うのは、人の役に立つことで自分が困らないならあげればいいんだよね。

そしてもらった方は無駄にしようが何しようが、ただただ感謝する。

そこに罪悪感などはひとカケラも必要ない。

そう思います。

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