究極の楽しみ方。

親愛なるあなたへ

人間はどんなとき楽しいと感じるのでしょう。

美味しいものを食べるとき、恋愛するとき、趣味に没頭できるとき。

色んな楽しさがあります。

その中でも、「人に認められる願望」というのが心理学ではかなりの割合を占めるのだそう。

食事や趣味も一人でするのもいいけど、それを共有できる仲間がいたり、世間に認められるともっと楽しいと感じる。

大枠ではそんなしくみになっているようです。

ここでなんですが、ほとんどの人は自分がしていることに楽しさを感じる。

才能でも何でも、「私はこれができるんだ」と世間に認めてもらうことで満足感を覚える。

「あの人はすごい」「あの人にしかできない」

この評価が最高に嬉しいと感じるものです。

悪いということではなく、それが普通である。

ところが、実はもっと楽しい方法があるようです。

この楽しさを超えるものはないだろう、と、私が勝手に思っているだけですよ。

それが、自分ではなく「他の誰かがしている」と思うこと。

怪しい話です。

どういうことかというと、例えばこうやって記事を書いたりすると大概の人は自分に文才があると思う。

文章を書くって大変なんです。

それが何故か続く。

文才があるから文章が書ける。

理屈としてはそういうことになっています。

ところが、私の場合は文才があるとは全く思えないのです。

思うのに相当な無理がある。

昔からまぁ作文に自信がありませんから。

すると、これどういうことですかというと、よく分からないけど、自分じゃない他の何者かがこれをしているのではないか。

何かを全うさせるために自分の体を使っているのではないか。

そう考えると、ものすごく楽しくなってくるのです。

「オレには文才がある」「私にしかできない」

そう思ってもいいのですけど、これをやると一人になったときに何故か楽しくなくなる。

もう少し分かりやすく言いますね。

コンサートでもパフォーマンスでも何でもいいですけど、「自分の才能だ」と思ってやると、会場では割れんばかりの喝采を浴びても、帰った後で何故かむなしくなるのです。

人間の心の構造は不思議にそうなっています。

俳優さんでも世間から絶大な支持を集めていたのに自殺してしまう人とかいるのです。

それは本当の楽しさを知らなかったのかもしれない。

色んな事情がありますから全員が全員ではありませんよ。

ただ、分かりやすい例として自分の「我」で通そうとすると「そうじゃないよ」と誰かが言っている気がする。

オンステージではあんなに輝いていたのに日常に戻ると急に心が色あせてしまう。

そういう体験を通して言ってくれているような気がするのです。

楽しみの一番奥というのは、天が自分のために与えてくれたのだと思うこと。

すると、それをしている意味と目的が分かるから心から楽しいと思えるようになっている。

相変わらず変な話で申し訳ないですけど、分かる人はすごく幸せな人だと思います。

by You