問いの始まりと終わり。

親愛なるあなたへ

子供の頃は親という絶対的な存在がいます。

実際の親でなくても、自分を育ててくれた人という意味です。

家庭だけではなく、外の世界でも学校の先生をはじめとして大きな影響力を受けます。

子供にとって大人は大親友ですから、言うことは本当だと思い込みます。

でも実は違った、ということがたくさんあるので、我々が独り立ちして実社会に出ていくときには常に「何故そうなのか」「何故それが必要なのか」と問わねばなりません。

ところが、今度は逆に、世間の荒波にもまれて毎日の生活が色あせて見えると、いわゆる生き方や人生について考え始めるのですが、それに対する先代の偉人による答えに対しては「何故」を問うてはいけないのです。

聖書の中に「汝、なぜかなぜかと問いかけることなかれ」という言葉があるのだそうですが、世の中の色んなことを探っていくと理由がよく分からなくなるものです。

大人は社会に出るときに学ぶべきであった「何故」というのをここで使う。

ところが、問いには始まりと終わりがあるのです。

その「何故」という時期は終わっています。

世の中の一番奥を見ようとするときは「何故」が通用しなくなります。

「ああ、そういうものか」という納得しかありません。

恐らく「何故」を使うのは、非科学的や非論理的なものに「騙されるかもしれない」という不安があるからだと思います。

世の中には確かにそういう側面もあって、一概にすべてを鵜呑みにするのは危険なのですが、最後は自分が「ああ、そういうものか」と納得するしかありません。

これを人に説明しようとなると非常に困難になるのですが、どうしたらそれができるかというと、もし「何故」を使うなら、まずは自分の今の現状に使ってみてはいかがでしょうか。

偉人哲人が説いている「怪しい話」よりも、まずは自分が疑いないと思っている日常に「何故」を問うてみる。

すると、思いのほか簡単に世の中の真理が「ああ、そういうことか」と分かるかと思われます。

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